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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『世界を救ったその後で』

第一話 木剣


朝の六時十二分に目が覚めた。


目覚めた、というより、眠ることを諦めたと言った方が近かった。


アルトは天井を見ていた。


木目がある。


薄く曲がった線が何本も走っている。


その中の一本は、途中で折れた川のように見えた。


昨日も見た。


一昨日も見た。


たぶん明日も見る。


窓の外で鳥が鳴いている。


名前は知らない。


昔なら一緒に旅をした魔法使いが教えてくれただろう。


あれは北の森から来る鳥だとか。


春の終わりには鳴き方が変わるとか。


そういうことを、彼女はいちいち教えてくれた。


アルトはたいてい聞き流していた。


その頃の彼には、鳥の名前より、魔王軍の進路の方が大事だった。


花の色より、敵の弱点の方が大事だった。


風の匂いより、血の匂いに敏感である必要があった。


世界を救うとは、そういうことだと思っていた。


今は違う。


世界は救われた。


魔王は死んだ。


王都には朝が来る。


パン屋はパンを焼き、魚屋は魚を並べ、子供たちは石畳の上を走る。


世界は何事もなかったように続いている。


続かなかったのは、自分だけだった。


アルトはゆっくり起き上がった。


机の上に昨夜から置いたままの水差しがある。


水を杯に注ぎ、飲む。


ぬるかった。


喉を通る水の温度が、妙にはっきりわかった。


階下へ行けば冷たい水がある。


宿の主人に頼めば氷も出してくれるだろう。


しかしそこまで行く理由が見つからなかった。


理由というものは、なくなると本当に何も動かさなくなる。


剣を持つ理由。


旅をする理由。


朝起きる理由。


誰かに会う理由。


理由は一度なくなると、部屋の隅に落ちた小さな釘のように見つからなくなる。


そこにあるはずなのに、どこにも見えない。


部屋の隅には聖剣が立てかけられていた。


銀色の刀身。


金の装飾。


王家の紋章が刻まれた鞘。


魔王を倒した剣。


世界を救った剣。


三ヶ月前まで、その剣はアルトの身体の一部のようだった。


眠る時も近くに置いた。


食事の時も手の届く場所にあった。


敵の気配がすれば、考えるより先に柄を握っていた。


今は違う。


聖剣は部屋の隅にある。


家具のように。


古い傘立てのように。


あるいは、誰かの遺品のように。


アルトは見ないようにした。


見れば思い出す。


魔王城の黒い空。


石壁に染み込んだ血の匂い。


仲間の息遣い。


最後の扉を開ける時の、手のひらの汗。


そして王都の広場。


歓声。


花びら。


泣いている人々。


王の手。


肩に置かれた仲間の腕。


勇者様。


勇者様。


勇者様。


その声の中で、アルトは笑っていた。


たぶん笑っていた。


肖像画にもそう描かれている。


黒髪を風になびかせ、聖剣を掲げ、背筋を伸ばし、迷いというものを知らない顔をしている。


王都の広場に飾られているその肖像画を、アルトは一度だけ見たことがある。


よくできていた。


よくできすぎていた。


あれは自分ではない。


少なくとも、今の自分ではなかった。


今のアルトの黒髪は襟足まで伸びていた。


ところどころ跳ねている。


顎には薄い無精ひげがある。


灰色がかった青い目の下には、眠れていない人間特有の影が落ちている。


鼻筋も輪郭も、昔と同じなのだろう。


顔立ちだけなら悪くない。


それは知っている。


知らないふりをしているだけだ。


だが今は、そのすべてに埃が積もっていた。


長身の身体は以前より少し痩せた。


白いシャツには皺があり、背中はわずかに丸くなっている。


英雄は、姿勢が悪いだけで英雄ではなくなるのだと、アルトはこの三ヶ月で知った。


窓の外から声がした。


子供の声だった。


「まだ?」


女の子の声。


「まだ」


男の子の声。


「いる?」


「いる」


「見た?」


「見てない」


「じゃあなんでいるってわかるの」


沈黙。


アルトは動かなかった。


杯を持ったまま、耳だけが窓の方を向いていた。


「みんな言ってた」


男の子が言う。


「この宿に勇者様がいるって」


「みんなってだれ」


「八百屋のおじさんと、パン屋のおばさんと、井戸のところのおばあさん」


「いっぱいだね」


「だからいる」


「でも見てない」


「……いるんだよ」


アルトは杯を机に置いた。


小さな音がした。


部屋の中ではその音だけが妙に大きく響いた。


カーテンの隙間から外を見る。


宿屋の前に二人の子供が立っていた。


兄は十歳くらいだった。


茶色い髪。


日に焼けた肌。


細い身体。


けれど木剣を握る手だけが、子供のものに見えなかった。


小さな傷がいくつもあり、爪の間には土が残っている。


その手は、遊びで剣を握っている手ではなかった。


妹は五歳くらいだった。


金色に近い髪が、朝の光を受けて跳ねている。


兄が直したのだろう。


そして失敗したのだろう。


妹は兄の服の裾を掴みながら、宿屋の二階を見上げていた。


アルトはカーテンを閉めた。


外の光が細く切られ、部屋は少し暗くなった。


胸のあたりが軽くなり、同じ場所が重くなった。


午前中が過ぎた。


子供たちはまだいた。


アルトは部屋の中を何度か歩いた。


扉の前まで行った。


戻った。


椅子に座った。


また立った。


何をしているのか、自分でもよくわからなかった。


階段を降りればいい。


ただそれだけのことだった。


扉を開けて、廊下を歩き、十三段の階段を降りる。


三ヶ月前まで、アルトは魔王城の螺旋階段を駆け上がっていた。


崩れ落ちる天井の下を走った。


黒炎の中を進んだ。


仲間を背負って逃げた。


それなのに今は、宿屋の階段が降りられない。


人間は、難しいものにだけ負けるわけではない。


時々、あまりにも簡単なものに負ける。


昼になった。


宿屋の下から皿の音が聞こえた。


パンを切る音。


誰かが笑う声。


椅子を引く音。


生活の音だった。


アルトはそれらを聞いていた。


自分だけが透明な薄い膜の内側にいるようだった。


外側には世界がある。


内側には自分がいる。


膜は見えない。


しかし確かにある。


窓の外で、妹の腹が鳴った。


大きな音だった。


「おなかすいた」


妹が言った。


「そうか」


兄が言った。


「レオも?」


「平気」


「うそ」


「嘘じゃない」


「顔がうそ」


兄は黙った。


しばらくして、硬貨が触れ合う小さな音がした。


「二枚?」


妹が聞く。


「うん」


「パン、ふたつ買える?」


「小さいのなら」


「大きいのは?」


「無理」


「じゃあ小さいの」


「あとでな」


「あとっていつ」


「勇者様に会えたら」


「会えなかったら?」


また沈黙。


宿の主人が外へ出てきた。


白い前掛けをしている。


「中で待つかい」


兄はすぐに首を横に振った。


「大丈夫です」


妹が即座に言った。


「だいじょうぶじゃない」


主人は笑った。


「そうらしいな」


「ミア」


兄が低い声で言う。


妹は気にしない。


「おなかすいた」


主人は宿の中へ戻り、小さなパンを二つ持ってきた。


「売れ残りだ」


兄は受け取らなかった。


「お金がありません」


「売れ残りだ」


「でも」


「売れ残りだ」


主人の声は穏やかだった。


しかし譲る気はなさそうだった。


兄はしばらく考えた。


そして深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


十歳にしては丁寧すぎる礼だった。


丁寧すぎる子供は、だいたい何かを失っている。


主人はそれを知っていた。


アルトも知っていた。


戦争中、そういう子供を何人も見た。


大人より大人のように礼を言う子供。


泣く代わりに頭を下げる子供。


空腹より迷惑をかけることを恐れる子供。


世界を救う旅の中で、アルトはそういう子供を見てきた。


見てきたはずだった。


なのに今、自分の宿の下にいる一人の少年に、何もできずにいる。


妹はパンをすぐに食べた。


小さな口で、しかし一生懸命に。


兄は半分だけ食べ、残りを布に包んだ。


「なんで残すの」


妹が聞いた。


「あとで食べる」


「夜?」


「違う」


「でも夜に食べるんでしょ」


兄は答えなかった。


妹はパン屑を指で拾おうとしていた。


なかなか掴めない。


小さな指先からパン屑が逃げる。


それでも何度も拾おうとする。


アルトはそれをカーテンの隙間から見ていた。


自分が何を見ているのか、途中でわからなくなった。


午後になった。


陽が少し傾く。


石畳が白から黄色へ変わっていく。


妹は蟻を見ていた。


石畳の隙間から出入りする小さな蟻たちを、飽きもせずに見ている。


兄は立ったままだった。


木剣を手放さない。


時々、宿屋の二階を見る。


そのたびにアルトは息を止めた。


見られているわけではない。


カーテンは閉まっている。


それでも、見られている気がした。


夕方になる。


空が赤くなり始めた。


兄は妹を起こした。


「帰るぞ」


妹は眠そうに目をこすった。


「会えた?」


兄は少し黙った。


「今日は忙しかったんだ」


「勇者様?」


「うん」


「見たの?」


兄は答えなかった。


妹は二階の窓を見上げた。


「会いたかった?」


兄は木剣を握った。


強く。


「別に」


妹は首を傾げる。


「うそ」


兄は何も言わない。


「レオ、勇者様きらいだもんね」


風が吹いた。


夕方の風だった。


昼間より少し冷たい。


兄は黙っていた。


妹は続ける。


「父さんと母さん、死んだから」


アルトは動けなかった。


窓の内側で、体のどこかが固まった。


「みんな勇者様ありがとうって言うけど」


妹の声は小さかった。


けれどよく通った。


「レオ、いやなんだよね」


兄は俯いた。


しばらく黙っていた。


そして言った。


「そうだよ」


初めて強い声だった。


妹が驚く。


兄自身も驚いているようだった。


「そうだよ」


もう一度言う。


「嫌だった」


木剣を握る手が震えていた。


「父さんは死んだ」


「母さんも死んだ」


「なのにみんな」


声が少しずつ歪んでいく。


「勇者様ありがとうって」


「勇者様ありがとうって」


夕陽が石畳を赤く染めている。


兄の影が長く伸びる。


「じゃあ父さんは?」


声が震えた。


「母さんは?」


妹は黙って聞いている。


「なんで帰ってこないんだよ」


木剣が石畳に落ちた。


乾いた音がした。


兄は泣いていた。


初めて子供の顔だった。


十歳の顔だった。


アルトは、その泣き声を知っていた。


戦場の後で聞いた声だった。


焼けた村で聞いた声だった。


瓦礫の下から聞こえた声だった。


助けられた子供が、助けられなかった誰かを呼ぶ声。


勇者は世界を救った。


しかし、ひとりひとりの父や母を返すことはできなかった。


それを誰も言わなかった。


王も。


民も。


仲間たちも。


誰も言わなかった。


ただ、ありがとうと言った。


勇者様ありがとう。


その言葉の中に、返ってこない人々の名前はなかった。


妹は兄を見ていた。


責めるでも慰めるでもなく。


ただ見ていた。


そして聞いた。


「レオ」


兄は顔を上げない。


「ほんとは会いたかったの?」


世界が静かになった。


荷車の音も。


酒場の声も。


風の音も。


全部遠くなったように感じた。


兄は何も言わなかった。


長い時間。


やがて、小さく頷いた。


妹はそれ以上何も聞かなかった。


兄は木剣を拾った。


しばらく見ていた。


そして宿屋の扉の前に置いた。


「レオ」


妹が言う。


「いいの?」


「うん」


「まもの来たら?」


兄は妹の手を握った。


「走る」


妹は少し考えた。


「そっちの方がいいね」


兄は泣きながら少し笑った。


二人は歩き出した。


小さな背中が二つ。


夕方の通りの中へ消えていく。


アルトはカーテンの内側で動けなかった。


父さんは。


母さんは。


なんで帰ってこないんだよ。


その言葉だけが部屋に残っていた。


夜になった。


宿の主人が夕食を持ってきた。


パン。


冷めかけたスープ。


薄い燻製肉。


それから一本の木剣。


主人は木剣を机に置いた。


「今日の子が」


と言った。


「勇者様へ、だそうです」


アルトは木剣を見た。


「一日中待っていました」


主人は続けた。


「妹さんを連れて」


アルトは何も言わない。


「会いたかったんでしょう」


主人は少し間を置いた。


「たぶん、会いたくなかったんでしょうけど」


その言葉は、静かに置かれた。


主人は部屋を出ていった。


扉が閉まる。


アルトは木剣を手に取った。


軽かった。


粗い作りだった。


先端は欠けている。


柄には何度も握った跡がある。


手垢。


小さなささくれ。


削り直した線。


子供の手に合わせて、何度も直したのだろう。


柄には文字が刻まれていた。


『ぼくはつよくなります』


裏返す。


『いもうとをまもれるようになります』


そこで終わっていた。


アルトはしばらくその文字を見ていた。


部屋の隅には聖剣がある。


机の上には木剣がある。


聖剣は世界を救った。


木剣は妹を守ろうとしている。


どちらが重いのか、アルトにはわからなかった。


窓は閉じたままだった。


彼は開けなかった。


階段も降りなかった。


何も変わらなかった。


それでも。


木剣を握ったまま、小さく呟いた。


誰にも聞こえない声で。


「俺も」


そこで言葉が止まった。


喉の奥が痛い。


しばらくして、ようやく続きが出た。


「会いたくなかったんじゃない」


夜の部屋は静かだった。


聖剣も木剣も何も答えない。


アルトは目を閉じる。


そこに浮かんだのは、肖像画の勇者だった。


黒髪を風になびかせ、聖剣を掲げ、迷いのない顔をしている。


アルトはその顔を見た。


長い間。


そして、言った。


「会えなかったんだ」


その声もまた、誰にも届かなかった。


ただ木剣だけが、机の上に残っていた。


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