『君と君』第二節 似た立ち方
第二節 似た立ち方
雨はまだ降っていた。
砦の石床へ落ちた黒は、水たまりの中にありながら濡れることも映ることもなく、その場所だけ夜を置き忘れたように静かだった。崩れた右肩の輪郭だけが薄く残り、そこだけ世界が続きを思い出せないでいるように見える。
ダンは腕を外さなかった。
ガルドも振り払おうとはしない。立てるだけの力はもう戻っているはずなのに、肩へ掛かった腕だけは荷物とも怪我とも違う重さを持ち、自分一人で立っていた頃には知らなかった疲れを静かに思い出させていた。
「……離せ。」
「黙ってろ。」
返事は間を置かなかった。その短さは突き放すためではなく、長い説明より先に相手を支えてしまう男の癖だった。
「立てる。」
「知ってる。」
「なら。」
「まだだ。」
ガルドは鼻で笑う。
「変わったな。」
ダンは少しだけ考えてから首を振った。
「変わったんじゃない。」
雨粒は二人の肩を同じ調子で叩いていた。濡れる速さに違いはないのに、片方の肩には人の重みがあり、もう片方にはそれを支える腕があった。その違いだけが、雨には分からない。
「守るもんが増えただけだ。」
ガルドは何も言わない。
焚き火の煤の匂いがまだ革鎧へ残り、夜明け前の空気だけが雨とは別の冷たさを運んでくる。人は思い出へ名前を付けたがるが、名前にした途端、少しだけ軽くなってしまうものもある。
「……俺は違った。」
視線は石床へ落ちたままだった。
「人と組めば、増える。」
一度だけ言葉を切る。
「そのぶん、減る。」
ダンは黙っている。
「減るたび、どっか持っていかれる。」
ガルドは少しだけ笑った。その笑みは誰かを嘲るものではなく、自分だけが知っている遠い失敗へ向けられていた。
「だから一人になった。」
ダンは何も返さなかった。言葉より先に離してしまう手もあるし、最後まで離れない手もあることを、四十年近く生きてきてようやく覚えた男だった。
返事の代わりに、肩へ置いた手だけは離さない。
ガルドはその手を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……そういうとこだぞ。」
「今さら直らん。」
二人の間に流れた沈黙は重くはなかった。長い戦場を生き延びた者だけが共有できる静けさが、雨音と一緒にそこへ座っていた。
そのやり取りを、アルトは少し離れた場所で聞いていた。
剣は下ろしている。
それでも右手だけは柄を握ったままだった。力を込めているわけではない。ただ指だけが、自分より先にそこへ居場所を見つけてしまっているようだった。
レオは木剣を抱え直した。
勇者なら、もっと格好いい言葉を知っているものだと思っていた。旅に出る前に読んだ物語ならきっとそうだったのだろう。けれど目の前の勇者は誰も励まさず、誰かの言葉を奪うこともなく、ただ少し離れた場所へ立っている。その沈黙の方が、不思議なくらい場を動かしていた。
胸へ残った違和感には、まだ名前がなかった。
ミアはしゃがみ込み、黒を見ていた。
「あ。」
誰へ向けるでもない声だった。
「ちがう。」
ノアもまた、同じものを見ていた。
黒は動いていない。それでも輪郭だけがゆっくりと崩れ、崩れた場所へまた黒が集まっていく。肩になり、ほどけ、腕が伸び、また崩れる。その繰り返しは失敗というより、忘れてしまった形を何度も確かめているようだった。
右肩だけは、どうしても続かない。
壊れているわけではない。
同じ形でいることが、できなくなっていた。
ノアは息を止める。
ガルドから黒へ続いていた何かが、音もなく切れた。
それでも黒は、その場を離れようとはしなかった。雨粒に乱されることのない水面の上で輪郭だけが静かに揺れ、崩れた右肩へ何度も黒が集まっては、形になる寸前でほどけていく。その繰り返しには焦りも執着も見えず、ただ世界が一つの輪郭を思い出そうとしているような、不思議な静けさだけがあった。
「……壊れてる。」
レオの声は、自分へ言い聞かせるように小さかった。
「違う。」
ノアは黒から目を離さない。
「あれは、失ったの。」
何を失ったのかは、ノアにもまだ分からなかった。ただ、ガルドと向き合っていたときとは明らかに様子が違う。その違いだけが、これまで積み重ねてきた観察の中へ静かに加えられていく。
黒はゆっくりと首を巡らせた。
ガルドを見ても止まらず、ダンの前を通り過ぎる。レオとミアを映し、ノアの顔をかすめるように視線を滑らせると、最後にアルトの前で初めて動きを止めた。
雨は変わらず降っている。それなのに、その場所だけ音が少し遠くなった気がした。
アルトは剣を抜いていない。
肩の力も抜けたまま、俯き加減に立っている姿は、旅の途中で見慣れた頼りない青年と何一つ変わらなかった。ところが次の瞬間、右足が石畳のわずかな凹みを探るように半歩前へ滑り、踵が地面を捉えると同時に腰が静かに落ちる。左手は考えるより先に柄へ添えられ、その動きだけが長い年月を忘れていないようだった。
レオは、その姿を何度も見てきた。
旅を始めた頃は、不思議で仕方がなかった。朝になっても荷車にもたれたまま動けない日があり、焚き火の火が小さくなっても炎を見つめ続ける夜があった。笑うことは少なく、食事を勧められても少し困ったように頷くだけで、自分から何かを望む姿を見た記憶はほとんどない。本当に勇者なのだろうかと疑ったことは、一度や二度ではなかった。
それでも危険だけは、そんな時間を待ってはくれない。
子どもが転び、魔物が牙を向け、矢が弦を離れる。そのたびにアルトは、まるで身体だけが先に知っていたかのように誰より速く動いた。剣を振るうことを選んだようには見えず、あとから本人がその動きへ追いついてくるようにさえ見えた。レオが追いかけてきたのは、強さではなく、その不思議な背中だった。
「……先だった。」
ノアが小さく呟く。
「何が?」
「アルトさんじゃない。」
レオは首を傾げる。
ノアは黒を見つめたまま、静かに言った。
「身体。」
黒が半歩だけ前へ出る。
水たまりを踏んでいるはずなのに波紋は生まれず、重心だけがゆっくりと沈んでいく。首の傾き、左肩の位置、柄のない空間へ伸びる指先――そのどれもが人の姿を真似ているのではなく、身体の使い方だけを少しずつアルトへ近づけていた。右肩だけは最後まで欠けたままだったが、その欠落がかえって、形ではなく何かもっと深いものを写していることを際立たせていた。
アルトは初めて視線を上げる。
灰色の瞳に映ったのは、自分によく似た誰かではない。右足へわずかに重心が移り、左手が柄を握る力だけがほんの少し強くなる。その立ち方を、身体のどこかが先に知っていた。
ミアが小さく首を振る。
「その人じゃない。」
黒は止まる。
雨粒が一つ、水たまりへ落ちた。
輪は幾重にも広がり、黒の足元を静かに通り過ぎていく。その輪が消えかけた頃、黒はゆっくりと右手を持ち上げ、何もない空間へ指を閉じ始めた。
そこには剣はない。
それでも長い柄を握る形だけは、あまりにも自然だった。
アルトの左手が、静かに柄へ添えられる。
黒の指が、そのあとを追うように閉じた。
それはなぞるように、閉じるように。
どこに行けば良いのか、それは
おそらく黒にも分からなかった。




