『君と君』第一節 欠けた肩
第一節 欠けた肩
黒は、すぐには離れなかった。
アルトの剣はガルドの皮膚と黒のあいだに差し込まれたまま、薄い隙間を保っていた。刃は動いていないのに、そこだけ時間の流れが遅くなったように見え、雨の音も、誰かの荒い呼吸も、濡れた壁を一枚隔てた向こうから聞こえていた。
最初に、ガルドの右手が緩んだ。
ダンの背へ食い込んでいた指が一本ずつ浮き、次に肘が落ちた。左腕もレオを引き寄せる動きをやめ、病人の足首へ続いていた黒い筋は、湿った布から水分が抜けていくように細くなった。
「動くな」
アルトは言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。ガルドか、ダンか、それとも剣を振り抜く位置を探している自分の腕に向けたものだったのかもしれない。
黒はガルドの首筋から浮き始めた。
皮膚に貼りついていたものが剥がれるというより、同じ身体へ押し込まれていたもう一人が、狭いところから押し出されてくるようだった。額ができ、顎が垂れ、胸と左肩が続く。黒い輪郭はガルドの傍らで立ち上がろうとして、そこで止まった。
右肩だけがなかった。
頭から左腕までは繋がっているのに、右の首筋から先だけが途切れていた。そこには肩があるはずだったが、黒は何度膨らんでも丸みを作れず、空いた場所へ煙のようなものを集めては崩した。
一度。
二度。
どちらも肩にはならなかった。
アルトには、その欠け方が見えた。
形が足りないのではない。そこにあるはずのものが、別の場所へ移されている。
ガルドの身体は欠けていなかった。右肩も腕も、そこにある。ただ、その重さだけがダンの腕へ渡されていた。
黒が動いた。
欠けた肩から細い筋を伸ばし、ガルドへ戻ろうとする。聖剣に触れたところで焼けた布のように縮み、今度はダンの手首へ向きを変えた。
ダンは避けなかった。
古傷の走る手でガルドを支えたまま、黒が指先へ触れるのを見ていた。顔色は悪く、額には汗が滲んでいたが、腕の位置は変わらなかった。
「右から来る」
アルトが言った。
ダンは目だけを上げた。
「それを先に言え」
足を半歩開き、ガルドの身体が傾いた分だけ膝を曲げた。抱き寄せるのでも、立たせるのでもない。自分のところへ置かれたものが、床へ落ちないように持っていた。
黒はダンの手首から腕へ這い上がった。
肘を越え、肩へ向かい、そこで動きを鈍らせた。細い枝のような筋を何本も伸ばし、ダンの輪郭を探ったが、そこにガルドの身体はなかった。
あるのは重さだけだった。
黒は来た道を戻った。
もう一度、ガルドの欠けた肩へ入り込もうとして、同じ場所で形を失った。それからまたダンへ伸び、何も持ち帰らないまま引き返した。
「同じところを探してる」
ノアが言った。
レオは木剣をガルドの左腕へ押し当てたまま、短く息を吐いた。
「何を」
ノアは答えなかった。黒の先端を目で追いながら、ガルドとダンのあいだを往復する回数を数えるように、指先を一度だけ動かした。
三度目に黒がダンへ伸びた時、ガルドの左手が持ち上がった。
レオが反射的に木剣を握り直し、ノアも肘を押さえた。けれどガルドの手は黒へ向かわなかった。指先は一度空を掴み、それからダンの前腕へ触れた。
そこには、手首から袖の内側へ走る古い傷があった。
ガルドはその腕を掴み、自分の右肩へ押しつけた。
ダンの眉が、わずかに動いた。
「重いぞ」
「知るか」
声は掠れていた。けれど、ガルド自身の声だった。
黒が大きく脈打った。
人の頭らしい形が横へ潰れ、首と胸の境がなくなった。欠けた右肩だけが何度も膨らみ、そのたび内側から押し破られたように崩れた。
アルトの掌に、剣の向こうから重さが伝わった。
雨を吸った外套。肩へ食い込む膝。泥の上を引きずる足と、滑りかけた手首。それから、離せば落ちると知っている腕。
それがガルドの記憶なのか、黒が拾い集めた誰かの感触なのか、アルトには分からなかった。剣を握る指へ届いた次の瞬間には形を失い、濡れた土の匂いだけが残った。
以前にも、似たことがあった。
斬り伏せた魔物のそばで、行ったことのない沼の匂いがした。別の魔物を斬った時には、右の奥歯が一度だけ疼き、誰かの名に似た音が耳の奥へ引っかかった。
どれも、刃を振り終える頃には消えていた。
疲れていたのだと思った。そう思えば、次の場所へ進めた。
今は、刃を止めている。
だから消えないのかもしれなかった。
黒をガルドから離せば、その中にガルドの動きが残る。押し戻せば、黒の冷たさがガルドの皮膚へ返っていく。どちら側にも、片方だけのものはなかった。
それでも身体は、振り抜く角度を覚えていた。
右の肩口から胸へ、斜めに一本。
刃先をほんの少し沈めれば、その線に入る。黒だけでは済まないと分かっているのに、腕は何度も通った道を探すように、そこへ戻ろうとした。
アルトは剣を握り直した。
以前なら、見えた者が決めた。
どちらを残すか。どこまでなら斬れるか。ここで一人を諦めれば、その先で何人が助かるか。
迷っているあいだにも、世界は答えを求めた。アルトは答え続け、やがて何も聞こえない場所を探すようになった。
黒が震えた。
アルトは剣を振らず、口を開いた。
「レオ、左を下げるな」
レオは返事をしなかった。木剣を押す腕から力を少し抜き、足を開いて腰を落とす。ガルドの腕から来る重さを、木剣から肩、腰、踵へと流した。
「ノア、肘を外へ」
ノアはアルトを見たあと、ガルドの肘へ手を移した。ノートを扱う時だけ丁寧になる指で骨の位置を確かめ、黒が戻ろうとする方向とは反対へ、ほんの少し角度を変えた。
「ダン」
「このままだな」
アルトは頷いた。
それだけだった。
黒がガルドの左腕から剥がれ、逃げ道を探すようにレオの木剣へ流れ込んだ。
柄の近くから木目が黒く濡れていく。父から譲り受けた時からある浅い欠けも、何度も握られて丸くなった柄も、その下へ沈んだ。
レオの指が強く締まった。
黒は木剣を伝い、その手へ届こうとした。
その途中で、流れが止まった。
谷でついた細い裂け目があった。刃の半ばを斜めに走る、まだ新しい傷だった。黒はその上を覆っている。それなのに裂け目の形だけは消えず、レオが腰を落とすと、閉じるのではなくわずかに開いた。
木が、短く鳴った。
折れる音ではなかった。
レオが押そうとするより先に、木剣の重さが足元へ落ちた。遅れて身体がそこへ追いつき、黒の先端をガルドの腕とのあいだに留めた。
ノアが木剣を見た。
「レオ」
「今、無理」
「まだ何も言ってない」
「だったら呼ぶな」
レオは木剣の先から目を離さなかった。
ミアは病人の毛布を直したあと、ダンのそばへ来ていた。裸足の指で濡れた石床を踏み、黒が二人のあいだを行き来する様子を、少し首を傾けて見ていた。
「そこじゃないよ」
アルトが顔を向けた。
ミアはダンの腕を指し、それからガルドを指した。
「ガルドは、こっちにいる」
それだけ言うと、病人のところへ戻った。
黒はダンの腕の途中で止まった。
細い先端を二つ、三つに分け、皮膚の上を探るように動かしたあと、一斉にガルドへ向き直る。
けれどガルドは、ダンの腕を自分の肩へ置いたままだった。
ダンもそれ以上近づかなかった。
二人の身体は触れていたが、どちらの輪郭も消えていない。
黒が、初めて静止した。
ほんのわずかな間だった。何かを考えたというより、次にどう動けばいいのかを失ったように見えた。
アルトは刃を少し寝かせた。
ガルドの皮膚と黒のあいだにある隙間が広がる。押し出すのでも、斬り離すのでもない。ガルドへ戻ろうとする黒へ、戻れない場所があることだけを示すように、刃の平を沿わせた。
黒の頭が崩れた。
左肩が落ち、胸が折れ、二本の腕が細長い筋になって石床へ垂れた。最後まで膨らみ続けていた右肩も、形を持てないまま大粒の雫になった。
黒は床へ落ちた。
音はしなかった。
ガルドの身体が傾き、ダンの肩へさらに重さがかかった。ダンは膝を曲げたが、そのまま支えた。
「……重い」
「三度目だぞ」
「なら慣れろ」
ガルドは目を閉じた。左手はまだ、ダンの腕を自分の肩へ留めていた。
床に落ちた黒が、ゆっくり膨らんだ。
人の頭に似た丸みができ、その下に左肩が生まれた。細い腕が二本持ち上がり、濡れた石床を探るように揺れた。
右肩の部分だけが窪んでいた。
黒はそこを膨らませた。
崩れた。
もう一度膨らませた。
また崩れた。
アルトの中に、遠い声が戻った。
海に入った川は、なくなるのかな。
少し間を置いて、別の言葉が続いた。
川は、川だったことを忘れないのかな。
雨の日だったのか、晴れた日だったのかは思い出せなかった。どこを歩いていたのかも、リシアがどんな顔をしていたのかも残っていない。
声だけがあった。
床の黒が、もう一度ガルドの形を作ろうとした。
頭ができた。左肩ができ、二本の腕が持ち上がった。右の首筋から先には、何度集めても暗い窪みしか生まれなかった。
黒い腕が、ダンへ伸びかけた。
ガルドの指が、ダンの古傷の上で動いた。
黒い腕は、その途中で止まった。
右肩だけが、最後までなかった。
ガルドの右肩には、ダンの腕が残っていた。




