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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一本の線』第五節 川だった場所

第五節を大幅に改稿いたしました。


いつも丁寧に読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。


少しずつではありますが、より良い物語になるよう、引き続き見直しを重ねてまいります。


今後ともよろしくお願いいたします。

第五節 川だった場所


第五節 川だった場所


黒はアルトの前から退いた。


床へ落ちた筋は二度ほど縮み、それからガルドの影へ戻っていった。逃げたというより、戻る場所を思い出したような動きだったが、黒が何かを思い出せるのかどうかは分からない。


アルトを選ぼうとしたのか。


それとも——。


そこまで考えて、違うと思った。


選ぶのではない。黒は、いちばん深く入れる場所へ戻っただけだった。


裾から胸元へ黒が昇ると、ガルドの背が反った。骨の一つ一つを、内側から誰かが数えているようだった。


アルトの右手が剣の柄を握り直した。


その動きは考えるより早く、だからこそ信用できなかった。以前なら、身体が先に動くことを迷わなかった。誰かが迷っている間に選び、その結果を引き受けることが、勇者の役目だと思っていた。


今は、身体の方だけが昔を信じていた。


ガルドの呼吸が戻るより先に、右腕が動いた。


すぐ隣に立っていたダンの肩へ腕を回し、脇の下へ手を入れる。戦場で足を傷めた者を運ぶ時の形であり、砦へ担ぎ込んだ病人を寝床まで連れていく時の形でもあった。


ダンの身体が少し沈んだ。


「何してる」


ガルドは答えなかった。


アルトは半歩だけ前へ出た。


黒が襲ってくれば斬れる距離だった。けれどガルドの腕は、ダンを傷つけようとしているようには見えなかった。肩を支え、倒れないよう身体を寄せている。見慣れた救助の形だったからこそ、アルトの足はそこで止まった。


ガルドの左手が、自分の右手首を掴んだ。


指は確かに右腕を止めようとしていた。しかし右腕はさらに深く回り込み、ダンの胸を自分の方へ引き寄せた。


二人の上着のあいだに黒が滲んだ。


最初は、雨に濡れた布が重なっているだけのように見えた。やがてダンの服の皺が消え、その下にあるはずの胸の膨らみまで、少しずつ平らになっていった。


アルトは剣を抜きかけた。


刃が鞘の内側を擦り、短い音を立てた。


何を斬る。


答えは出なかった。


ダンへ回った腕か。二人の間に滲んだ黒か。それとも、その両方を動かしているガルド自身か。


「ガルド」


「……離れろ」


声はガルドのものだった。


腕は別の答えを出した。


ダンが肘を張る。ガルドの左手は右手首を握り直したが、指は一本ずつ黒へ沈み、二本の腕は、誰かを抱くための輪のような形になった。


抱くことと閉じ込めることは、遠くから見ればよく似ている。


違いはたぶん、どこで手を離すかだった。


アルトはその違いを、これまで剣で作ってきた。


こちらに人を置き、向こうに魔物を置く。二つのあいだへ刃を通せば、少なくとも形だけは分かれた。


けれど今、ガルドの腕はダンを支えながら、同じ動きでダンを消そうとしていた。始まりと終わりのあいだにあるはずの境が、見つからない。


その時、ガルドの右脚が前へ出た。


ガルドの正面、数歩離れた場所には病人が横たわっている。その上半身をレオが抱え、足元をミアが支えていた。


ガルドが一歩進む。


病人の踵が、同じだけ石床を滑った。


足首からガルドの踵まで、一本の細い黒が張っていた。


レオが病人の肩を抱え直した。


「ミア、足」


ミアは理由を聞かなかった。小さな両腕で病人の脚を抱え、裸足の踵を床へ押しつけた。


二人が引く。


病人の背が石を擦った。


ガルドの脚がまた前へ出る。


病人の身体も、黒い筋に引かれて元の位置へ戻った。


アルトは病人の方へ身体を向けた。


助けなければならない。


そう思った時には、左足が踏み出していた。だが二歩目は出なかった。病人へ向かえば、ダンを抱き込もうとしているガルドから離れることになる。ガルドの前に残れば、病人は引きずられる。


以前なら近い方を救っただろう。


あるいは、助かる可能性の高い方を選んだ。


それが正しいのかを考える前に、勇者の身体は答えを作っていた。


今も、その答えは身体のどこかに残っていた。けれどアルトは、それを取り出せなかった。


「もう一回」


レオが言った。


ミアは直ぐにただ持ち方を変えた。片腕を病人の膝の下へ通し、ずり落ちかけた毛布を顎で押さえた。


幼い二人はこんな時にも少しずつ成長している。


アルトの指が、柄の上で少し緩んだ。


二人はアルトの指示を待っていなかった。


レオは病人の肩を持ち、ミアは足を抱えた。どちらを優先するかも、どちらが多く支えるかも決めず、目の前の重さを二人で分けている。


それを見たからといって、何かが分かったわけではなかった。


ただ、アルトが選べずにいるあいだにも、世界は止まっていなかった。


二人がもう一度病人を引いた時、ガルドの左手が自分の右手首から剥がれた。


一本。


また一本。


握り直そうとする指より、離れていく指の方が速かった。


自由になった左腕は、ガルドの正面にいるレオへ伸びた。


それも、子どもを危険から退かせる時の動きだった。肩を掴み、自分の側へ引き寄せる。最初の形だけなら、乱暴なところは何もなかった。


「くそっ」


レオが肩を振った。


病人を抱えているため、両手は使えない。身体を捻ると、腕の中で病人の頭が傾いた。


「ミア、下ろすぞ」


ミアは病人の足を抱えたまま膝をついた。


二人は病人を床へ戻そうとした。その時、黒い手は病人からレオに伸びた。そしてレオの肩からその胸へゆっくり滑っていった。


ガルドの左腕が閉じる。


レオの上着が、ガルドの胸元へ引かれた。


「離せ」


レオは病人から右手だけを抜き、黒い手首を押した。


腕は止まらない。


左腕はなお病人の肩を支えている。レオがガルドへ引かれるたび、病人の上半身まで持ち上がり、ミアの腕から足がずれた。


「レオ」


「そっちは持ってろ」


ミアは返事をしなかった。病人の足を抱え直し、自分の膝で踵を押さえた。


アルトは剣を鞘から抜いた。


けれど踏み込まなかった。


ガルドの左腕を斬れば、レオは離れるかもしれない。しかし、その腕は黒だけでできているわけではなかった。肩も、肘も、手首も、ガルド自身の身体だった。


何を斬れば、レオだけを戻せるのか。


刃は答えを持っていなかった。


レオの靴が石床を滑った。


ガルドの胸元まで、あと半歩もない。


ノアが横から左腕へ飛びついた。


肘の少し上へ両腕を回し、身体を後ろへ倒す。黒い腕はノアまで引き寄せようとしたが、レオを内側へ引く力と、ノアを横へ引きずる力が、肘のところでわずかに食い違った。


「木剣」


ノアが言った。


レオは床へ手を伸ばした。


指先が柄に触れる。


一度滑り、二度目に掴んだ。


レオは木剣を、ガルドの左肘と自分の胸のあいだへ差し込んだ。柄に近い太い部分を押し当て、両手で外へ押す。


ノアは反対側から腕を引いた。


二人の力は揃っていなかった。


レオは正面から押し、ノアは横から引いている。足の位置も、身体の傾きも違っていた。


それでも黒い腕は、先ほどより閉じにくそうだった。


アルトは剣を下ろさなかった。


斬る場所はまだない。


けれど、レオとノアが作ったわずかなずれを見失わないよう、ガルドの腕を追い続けた。


黒い指が、レオの胸から一本だけ浮いた。


ダンを抱く右腕。


病人へ進もうとする脚。


レオを庇う形をした左腕。


一度目なら、偶然に見えたかもしれない。二度目なら、似ているだけだと思えたかもしれない。三度目になると、似ていないと考える方が難しかった。


どれもガルドが、これまで誰かを助けた時の動きだった。


しかし、ガルドならそこまでしない。肩を支えたあとには離す。危険から退かせたあとには、相手が自分で立つ場所を空ける。


今は、その先がなかった。


何かが足されているというより、何かが抜け落ちているようだった。


「助けた時の動き」


ノアが言った。


レオは木剣を押しながら歯を食いしばった。


「どこがだよ」


「最初は」


ノアの靴が床を滑った。


「でも、止まれない」


その言葉が、アルトの中に残った。


止まれない。


それは黒のことを言っているはずだった。


けれど、かつて剣を振り続けた自分の身体にも、同じ言葉が使える気がした。助けるために進み、進むために斬り、斬ったあとには次の場所へ向かった。


どこで止まればよかったのか。


誰も教えなかった。


自分も聞かなかった。


ガルドの喉から低い音が漏れた。苦痛とも怒りともつかなかったが、そのどちらでもないと決めるには、少し人間の声に近すぎた。


アルトは、ガルドの身体に残っている違いを探した。


右腕も左腕も脚も、黒に使われている。声だけはガルドだったが、声は身体を止められない。


それでも、完全に消えてはいないはずだった。


そうでなければ、先ほど「離れろ」とは言わない。


そうでなければ、自分の右手首を掴もうとはしない。


見つけなければならない。


ただ、見つけたあとにどうするのかは分からなかった。


ダンの胸へ回った右腕が、さらに狭まった。


古傷のある手が、ガルドの胸元へ押しつけられる。


その傷は、親指の付け根から手首へ斜めに走っていた。雨の戦場でついたもので、ガルドが戻った時には、ダンは歯で布を引きながら一人で巻き終えていた。


手伝おうとしたガルドを、肘で追い払った。


あの時も、ダンは礼を言わなかった。


黒が傷の溝へ入り込んだ。


皮膚の色が消え、古い線だけが墨を流したように広がる。やがて、その傷がどちらの手にあったものなのか、見分けがつかなくなり始めた。


アルトにも、その傷が消えていくのが分かった。


傷がなくなることは、治ることとは違った。


長くそこにあったものが、最初からなかったようになる。痛みも、雨も、自分で巻いた布も、一緒に薄くなっていく。


ガルドの左手の指が震えた。


水の音がした。


砦には川などなかった。割れた桶から水が漏れているわけでもなく、雨は厚い壁の向こうで降っているだけだった。


それでもアルトは、山あいの川を思い出した。


雪解けの水が二つの流れを作り、少し先で一つになっていた。リシアは岸辺にしゃがみ、小石を投げた。


「川って、海に入ったらなくなるのかな」


「急に何の話だ」


「別に。同じ水になるのに、川だった場所までなくなるのかなって」


「なくなるだろ」


リシアは流れの先を見ていた。


「そうかな」


アルトは、あの時も自分の答えが正しいと思っていた。


水は混ざれば同じ水になる。どちらから来たかを区別する意味などなくなる。そういうものだと思っていたし、リシアがなぜ問いを残したのか、考えもしなかった。


小石の作った輪は、二つの流れの境で形を崩した。それでも岸は残り、濡れた草は片側にだけ倒れていた。


そのことを、アルトは今まで一度も思い出さなかった。


リシアが何を言いたかったのかは、今も分からない。


ただ、目の前の黒がしていることは、二つの川が混ざることとは少し違って見えた。


水だけでなく、岸まで沈めようとしている。


どこを通ってきたのか、その跡までなくそうとしている。


水音が途切れた。


ダンの古傷は黒へ沈み、レオの胸からは最後の指が離れずにいた。病人の毛布が石を擦るたび、薄い埃がガルドの方へ流れていく。


アルトは剣を握り直した。


まだ斬る場所は分からない。


それでも、斬ってはいけないものなら分かった。


ダンの言葉だった。


レオが自分で木剣を持っていることだった。


ノアが自分から腕へ飛びついたことだった。


ミアが誰にも言われず、病人の足を抱えていることだった。


それらを黒と一緒に消してはいけない。


ガルドの右脚が、もう一歩進もうとした。


病人まで、あと数歩だった。


アルトは病人の方へ動きかけたが、ガルドの腰が先に捻れた。


右足は止まらない。踵が持ち上がり、黒く沈んだ膝が伸びる。誰かのところへ戻ることだけを、身体が先に決めている。


床には倒れた椅子があった。


ガルドは、その脚へ自分の踵を引っかけた。


一度目は外れた。


二度目は木が滑った。


三度目に、踵が脚の内側へ食い込んだ。


アルトは、その三度を見ていた。


一度目で助けに入るべきだったのかもしれない。


二度目なら間に合ったかもしれない。


けれど三度目まで待ったからこそ、それが黒の動きではないと分かった。


黒は前へ進もうとしている。


踵を引っかけているのは、ガルドだった。


ガルドは体重を前へ落とした。


膝が折れる。


骨が石へぶつかり、鈍い音が砦に響いた。


黒い脚だけが立とうとした。


腰から上へ影が引き伸ばされ、人間の背中の後ろに、もう一人が無理に起き上がろうとしているように見えた。影の肩は高く、人間の肩は低い。二つの輪郭は首筋で一度重なり、それからわずかに離れた。


アルトは呼吸を整えた。


今まで探していたものが、初めて形になった。


ガルドの身体は倒れようとしている。


黒は立たせようとしている。


同じ場所にありながら、二つは別の動きを選んでいた。


ガルドの身体が横へ崩れた。


ダンが肩へ腕を差し入れた。脇の下へ手を入れ、倒れきる前に体重を受ける。先ほど黒に使われたガルドの腕と、よく似た形だった。


けれどダンの腕は、そこで止まった。


「放せ」


「今度は聞かん」


「借りになる」


「もう遅い」


ダンはそれだけ言い、ガルドの上着を拳へ巻き取った。慰めるような手つきではなかった。荷崩れを起こした荷車の綱を結び直す時と同じで、落とさないために必要な場所を持っているだけだった。


ガルドは肩を引いた。


ダンの腕から身体を抜き、自分の足へ重さを戻そうとする。右足が石を探り、腰が起き、背中の筋肉が細かく震えた。


立てなかった。


膝が床を擦った。


それでもガルドは、もう一度肩を引いた。


ダンは何も言わなかった。追いすがることも、強く抱え直すこともしなかった。ただ、ガルドが戻してきた重さだけを受け、その分だけ膝を曲げた。


ガルドは三度目に身体を起こそうとした。


肩がダンの腕から離れかける。


ガルドの右足は、なお床を押していた。腰も立ち上がる角度まで戻りかけている。あと少し力を入れれば、少なくとも支えられていないふりくらいはできた。


けれど、その少しが続かなかった。


いや、続けなかった。


一人でいる方が楽だった。


誰かの歩幅を気にする必要もなく、帰りを待つ声も聞かずに済む。どこで眠り、いつ去るかを、自分だけで決められる。


それなのに、一人になった場所には長くいられなかった。


最後に残った者を見つけると戻った。置いていけば、その者が一人になるからだと思っていた。


たぶん、それだけではなかった。


置いていったあと、自分も一人になる。


そのことを、ガルドは誰にも話さなかった。


話さなくても、身体は知っていた。


だから戻った。


だから抱えた。


だから、自分の重さだけは誰にも渡さなかった。


ガルドの肩が、もう一度ダンの腕から離れかけた。


ダンの拳は上着を掴んだまま動かなかった。その手は引き止めるためのものではなく、戻ってくるかもしれない重さを受ける場所として、ただそこにあった。


ガルドは足へ力を込めた。


立とうとした。


そして、やめた。


肩がわずかに沈んだ。


預けたというには、小さすぎる重さだった。疲れて力が抜けただけにも、黒に引かれただけにも見えたかもしれない。


けれどダンは、その違いを知っていた。


ガルドが立てなかったのではなく、立たなかったことを知っていた。


ダンの拳が、ほんの少しだけ緩んだ。


強く持てば、ガルドはまた自分の側へ重さを戻してしまう。だから腕の位置を変えず、増えた重さの分だけ、自分の身体を低くした。古い友と呼べるかさえ曖昧な相手に吹けば掻き消されてしまう様な声で呟いた。


「……落とすなよ」


ガルドの声は、黒に押し潰されそうなほど小さかった。


ダンはすぐには答えなかった。


ガルドの脇へ入れた手の位置を直し、上着の布をもう一度拳へ巻きつけた。


「誰に言ってる」


それだけだった。


ガルドは返事をしなかった。


身体を起こそうともしなかった。


二人のあいだを、重さだけが移っていった。


戦場で負傷者を担ぐ時のような、大きなものではなかった。荷物を半分持たせるほどでもなく、気を抜けば元の持ち主へ戻ってしまいそうな、名前をつけるには少し頼りない重さだった。


それでもガルドは取り返さなかった。


ダンの肩に、ガルドの重さが残った。


アルトは、その瞬間を見ていた。


誰かに身体を預けることは、相手の中へ入ることではない。ダンはガルドの重さを受けてもガルドにはならず、ガルドもまた、自分でなくなったわけではなかった。


二人の身体は別々の高さにあり、呼吸の速さも違っている。


それでも、ガルドは倒れなかった。


その瞬間、黒が遅れた。


ガルドの身体はダンへ沈んでいるのに、背中を覆う影だけは、なお一人で立ち上がろうとしていた。人間の肩は低く、黒い肩は高い。首筋で重なっていた二つの輪郭が、異なる高さへ引かれていく。


黒は、誰かの重さを自分へ引き寄せることを知っていた。


誰も外に残さないために、すべてを内側へ収めることも知っていた。


けれど、自分の重さを誰かへ渡し、別々の身体のまま支えられる動きだけは知らなかった。


皮膚と影のあいだに、細い隙間が生まれた。


刃一枚なら入るかもしれない。二枚は無理だろう。ガルドがもう一度一人で立とうとすれば、すぐに閉じてしまうような幅だった。


アルトは剣を上げた。


見つける。


分ける。


斬る。


身体の中に染み込んだ順序が、その続きを求めた。


その順番で、多くの魔物を斬ってきた。村へ入るものを斬り、子どもへ伸びた腕を斬り、仲間の背後に立った影を斬った。


刃の先には、今までの型がなかった。


右腕はダンを抱いている。


左腕はレオとノアに止められている。


脚から伸びた黒は病人へ続いている。


どこまでがガルドで、どこからが魔物なのか。境目は確かに見えているのに、その境目が何を分けているのかは、アルトには分からなかった。


剣を振れば、黒だけでは済まない。


アルトの肩が固まった。


また選べない。


そう思った。


だが、今回は両手が空いているわけではなかった。


右手にも左手にも、剣の柄があった。


どちらかを選ぶのではない。


今持っているものを、どう使うかだけが残っていた。


アルトは踏み込んだ。


刃を振らず、剣先だけを首筋の隙間へ差し入れた。


肉を刺す手応えはなかった。水面と、そこへ映った影のあいだへ薄い板を入れたような感触だった。


剣が震える。


斬れ、と身体が言った。


振り抜けば終わる。


少なくとも、これまでなら終わった。


アルトは柄を両手で押さえた。


振り抜かない。


刃を間へ残し、さらに押し込む。


剣を止めるために、剣を使った。


それが正しいのかは分からなかった。リシアなら何と言うだろうと考えかけ、やめた。


今、剣を持っているのはリシアではない。


ガルドの背中から黒い輪郭が浮いた。ほんの指一本分だったが、それまで重なっていた二つの肩が、別々の高さを持った。


黒が剣を押し戻した。


刃と隙間のあいだで、細かな震えが続く。冬の川へ薄い氷を立てた時のように、どちらへ倒れるのか分からない震えだった。


黒は元へ戻ろうとした。


右腕がダンを締める。


左腕がレオを引き寄せる。


右脚が病人へ進もうとする。


アルトは柄を押し続けた。


腕の感覚が薄くなっていく。指が柄から離れそうになるたび、握り直した。


その時、レオが言った。


「まだ持てる」


木剣を黒い肘へ深く差し込み、両手で押し上げる。ノアは腕へしがみついたまま、横へ身体を倒した。


二人の力は同じではなかった。


だからこそ、腕は一つの方向へ動けなかった。


黒い指が、レオの胸から離れ始めた。


一本。


次の一本。


最後の指が布を離した時、レオの身体が床へ落ちた。


レオは木剣を手放さなかった。そのまま肘を押さえ、ノアと反対の方向へ力をかけ続けた。


「今だ」


ノアが言った。


アルトは剣をさらに押し込んだ。


ミアは病人の足を抱えたまま、床へ身体を伏せた。ダンはガルドの重さを受け、膝を少し曲げた。


全員の姿勢は違っていた。


向いている場所も違っていた。


誰もアルトの命令を待っていなかった。


ダンはガルドを支え、レオは肘を押さえ、ノアは腕を引き、ミアは病人を離さない。それぞれが自分の場所から、自分にできることをしていた。


それでも、一つの黒い身体を止めていた。


ガルドの左手に、指の感覚が戻った。


完全に戻ったのかどうかは分からない。指先は黒く、爪の半分はまだ輪郭を失っていた。


それでもガルドは、その手を自分の右腕へ伸ばした。


右手首を掴む。


右腕はなお、ダンを胸元へ引き続けている。


ガルドは、自分の腕を自分の身体から引き剥がすように外へ押した。


黒が左手へ絡みついた。二本の腕を再び同じ輪へ戻そうとし、指と指のあいだを埋めていく。


アルトの剣も押し戻された。


刃が隙間から抜けかける。


アルトは右足を前へ置き、腕だけで押すのをやめた。身体の重さを、柄を通して剣へ預ける。


ガルドがダンへしたのと、少し似ていると思った。


けれど同じではなかった。


ガルドは重さを誰かへ渡した。


アルトは重さを刃へ渡している。


その違いが何なのか、今はまだ言葉にする必要はなかった。


ガルドは、ダンへ預けた重さを戻さなかった。


ダンの肩はそこにあった。


レオの木剣が左肘を止めていた。


ノアの腕が、その肘を横へ引いていた。


ミアの膝が床を擦る音がした。


病人の毛布が、少しだけ反対へ動いた。


アルトは剣を間へ残していた。


誰かと誰かを断つためではなく、二つが同じ場所へ沈みきらないために。


ガルドの右腕の中で、ダンの古傷が消えかけていた。


それはガルドが受けた傷ではなかった。


ガルドが返せる借りでもなかった。


ダンが自分で歩いてきた時間だった。


アルトにも、そのことが分かった。


父の手にあった傷も、母の指についていた粉も、自分の中へ残せば守れるものではなかった。


失われたからといって、自分のものになるわけでもない。


ガルドの指が、黒い右手首へ食い込んだ。


「返せ」


黒い腕が止まった。


完全に止まったわけではない。指先はなおダンの服へ沈もうとし、肘はガルドの胸へ戻ろうとしていた。


アルトは剣を離さなかった。


刃を振り抜くこともしなかった。


先ほどまで一つだった動きの中に、逆を向く力が生まれている。その細いずれが閉じないよう、両手で柄を支え続けた。


ダンを自分の内側へ残そうとする腕と、ダンを彼の立っていた場所へ戻そうとする手が、同じ身体の中で引き合っていた。


そのあいだに、アルトの剣があった。

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