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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一本の線』第四節 誰のものでもない距離

第四節 誰のものでもない距離



ガルドの背後で縮んでいた輪郭が、胸元へ沈み込んだ。


黒いものは衣服の下へ染みるように消え、ガルドの身体を内側から強く引いた。背中が反り、首が後ろへ折れかけ、喉から息とも声ともつかない音が漏れた。


胸の奥へ入ったものが、身体の使い方を確かめているようだった。


右肩が先に持ち上がった。肘が曲がり、腕が何もない空間へ回される。戦場で傷ついた者の脇へ肩を差し入れる時と同じ動きだったが、そこには担ぐべき身体がなかった。


手だけが途中で強く閉じた。


見えない誰かを逃がすまいとするように、胸元へ引き寄せる。


「ガルド」


ダンが一歩出た。


「来るな」


返事は早かった。


口はそう言ったが、床を踏んでいたガルドの右足は、ダンの方へ半歩ずれた。本人が気づいて戻そうとすると、今度は左足だけが後ろへ退いた。


前へ行こうとする身体と、離れようとする身体が、腰のあたりで繋がったまま別々に動いていた。


ダンは止まらなかった。


「さっきも聞いた」


「今度は違う」


「何がだ」


ガルドは答えなかった。


答えようとした唇は開いたが、首だけが病人たちのいる方へ向いた。目はダンを見たままだった。人間の身体は、普通なら一つの意思に従う。しかし今のガルドは、それぞれの部分が異なる結論を受け取っているように見えた。


助けに行く。


近づけるな。


ここに残る。


一人にしろ。


そのどれもが、ガルドの中にもともとあったものだった。


右腕がもう一度上がった。誰かを担ごうとするように空間へ回され、その手へダンが触れようとした瞬間、同じ腕が激しく彼を払った。


助ける動きと、助けを拒む動きが、一つの腕の中で入れ替わった。


ガルドは自分の手を睨んだ。


「やめろ」


誰に向けた言葉なのかは分からなかった。


指が一本ずつ開いた。掌の中央から黒い筋が浮かび上がり、皮膚の下を這って指先へ分かれていく。五本の指の内側に、もう一つの手が重なっているようだった。


黒い指は外へ伸びようとし、人間の指はそれを握り潰そうとする。


ガルドが拳を作ると、黒も同じ形に閉じ込められた。しかし完全には消えず、関節の隙間から細い糸のように漏れ続けた。


ダンがもう一度近づく。


「触るな」


「倒れるぞ」


「倒れねえ」


ガルドの片膝が揺れた。


膝から力が抜けたのではなかった。曲がろうとする脚を、別の力が内側から伸ばしていた。ガルド自身が立とうとしているのか、魔物が身体を倒させまいとしているのか、その二つは同じ姿勢の中で重なっていた。


ダンはガルドの腕を掴んだ。


ガルドが振り払おうとする。


その瞬間、黒い指が皮膚の下から現れ、ダンの手を内側から握り返した。


ダンの指がガルドの腕を掴み、ガルドの身体の中にある別の指が、その手を逃がさないように包んでいる。助けられることを拒む動きと、触れた相手を完全に自分の側へ引き入れようとする動きが、同時に起きていた。


「放せ」


「借りにしとけ」


ガルドの顔が変わった。


驚いたのではなかった。長く閉じていた部屋の扉を、鍵の場所まで知っている者に突然開けられたような顔だった。


「要らねえ」


「返せばいい」


「返せねえものを寄越すな」


声が砦の奥まで響いた。


黒が大きく膨れた。


ダンを包みかけていた指が、何本もの筋へ崩れ、その腕を這い上がろうとした。壁際の埃が舞い、割れた器が床を滑った。病人の一人が身じろぎし、レオが反射的にその身体を抱え直した。


魔物は、ガルドの恐れを見つけたのだ。


誰かに助けられれば、助けた者との間に何かが残る。返すまで切れない糸が生まれ、もし返す前に相手がいなくなれば、その糸だけが自分の中へ残される。


ガルドは、それを借りと呼んできた。


金や物のことではない。


自分の重さを誰かへ預け、その人が支えてくれたという事実のことだった。


だからガルドは、担ぐことはできても担がれることができなかった。誰かの最後尾に残ることはできても、自分を待ってもらうことには耐えられなかった。


誰かと同じ場所へ帰りたい。


しかし、そのために自分の一部を渡すのは怖い。


魔物は二つの願いを分けなかった。


返せない繋がりが怖いのなら、相手との境界そのものをなくせばよい。借りる者と貸す者が同じものになれば、返す必要もなくなる。


魔物にとっては、それが最も自然な答えだった。


「アルト」


レオが呼んだ。


しかし立ち上がらなかった。


以前なら、病人を床へ寝かせ、木剣を掴んでガルドの方へ走っていただろう。自分に何ができるかを考えるより先に、前へ出ることを選んでいた。


今は腕の中に男の身体があった。


ここで手を放せば、その頭は石の床へ落ちる。


レオはガルドを見てから、支えている男へ目を戻した。傾いた首の下へ肩を深く差し入れ、両足の位置を少し広げた。


力だけで持ち上げるのではなく、重さが逃げない場所を探した。


「こっちは離さない」


ガルドが少年を見る。


「無理するな」


「してない」


レオの声は震えていた。腕も小さく震えていたが、それを隠そうとはしなかった。


「まだ持てる」


格好をつけるための言葉ではなかった。


今の自分にできることを、自分で確かめるような声だった。


ガルドの口元が動いた。


だが黒が先に喉元まで上がり、声を押し戻した。首筋の皮膚が内側から持ち上がり、何かが声帯の形を確かめるように二度、三度と動いた。


ミアは床に膝をついたまま、ガルドを見ていた。


ダンへ近づくなと言う口。


その腕を振りほどこうとする肩。


それでもダンの手が離れかけると、無意識に指先を追いかける手。


病人の方へ向かおうとする足と、自分だけが離れようとする身体。


一人になろうとしているように見えて、身体のどこにも、本当に一人になりたがっている部分はなかった。


「ガルド」


ミアが呼んだ。


返事はなかった。


「離れろって言ってるのに」


ミアは少し首を傾けた。


「手は、行かないでってしてる」


ダンがガルドを見る。


ガルドは顔を背けた。


「勝手なこと言うな」


「でも、そうしてる」


「してねえ」


「してるよ」


ミアの声は責めるものではなかった。雨が降っているとか、窓が開いているとか、そこにあるものを確かめる時と同じ声だった。


黒がガルドの腕を伝い、指先へ集まった。


手が開く。


閉じる。


もう一度開き、今度は途中で止まる。


誰かを掴もうとしているのか。

誰かを拒もうとしているのか。


その二つは、同じ形をしていた。


ノアはミアを見ていた。


不思議な子だった。


ミアは見えないものを説明しようとしない。説明すればこぼれてしまうものを、こぼれない大きさの言葉へ移している。


その話し方を、ノアはどこかで知っている気がした。


顔は浮かばなかった。


名前もなかった。


けれど火のそばで、誰かが同じように世界の形を言葉にしたことがある。その人は答えを言わなかった。答えの少し手前にあるものだけを置き、あとは聞いた者が自分で見つけるのを待っていた。


言葉の終わりが、ほんの少し上がっていた。


笑っていたのかもしれない。


その記憶には入口がなく、手を伸ばしてもどこから入ればよいか分からなかった。昔から自分の中にあったものなのか、ミアの声が今つくったものなのかさえ判別できなかった。


ノアは閉じたノートの端を、親指で一度撫でた。


黒が再び動いた。


ダンの手首を包んでいた筋が肘へ達し、その先で枝分かれした。一本は肩へ、一本は胸へ、残りは指の間へ入り込もうとする。


ダンの輪郭を少しずつガルドの側へ引き寄せようとしていた。


「ダン、離れろ」


アルトが言った。


だがダンは手を放さなかった。


「こいつが離せって言ってる」


「今のは違う」


「何が違う」


アルトは答えられなかった。


ガルドの声と魔物の動きは、同じ方向を向いていた。


離れろ。


触るな。


放せ。


どれもガルドの言葉だった。魔物が嘘を言わせているのではない。ガルドが長いあいだ、自分へ言い聞かせてきた言葉だった。


ただ魔物は、その言葉の行き着く場所を変えていた。


人から離れれば、傷つかずに済む。


借りを作らなければ、失ったあとに残るものもない。


誰にも預けなければ、自分だけで終われる。


その考えを最後まで押し進めれば、ガルドの周囲には誰もいなくなる。魔物はそこに入り込み、空いた場所を自分で満たそうとしていた。


孤独をなくすために、ガルドと一つになる。


それが魔物の答えだった。


アルトは床へ向いた剣を見た。


ここで刃を振り上げれば、以前と同じになる。魔物に入り込まれたものを敵と呼び、その奥に残っているガルドごと境界を決める。


だが何もしなければ、黒はダンへ入り込む。


答えはなかった。


細い筋がダンの肩へ達した。


アルトは柄から片手を離した。


剣を捨てたわけではない。片方の手には残したまま、空いた手を身体の横へ下ろした。


二つとも空いていた幼い日の手とは違った。


片方にはまだ剣がある。


もう片方は、誰かを掴むために伸ばされたわけではなかった。


アルトはガルドへ歩いた。


「来るな」


ガルドが言った。


アルトは止まらなかった。


「聞こえてんだろ」


「ああ」


「なら来るな」


「分かってる」


ガルドの眉が寄った。


「何がだ」


アルトは答えられなかった。


助けられることが怖い。


借りを残すことが怖い。


誰かへ身体を預ければ、その人がいなくなったあと、預けた重さだけが自分のところへ戻ってくる。以前よりも重く、もう返す先のない形で戻ってくる。


アルトも、それを知っていた。


仲間に支えられて歩いた時間が長いほど、旅が終わったあとの身体は軽くならなかった。支えていた手がなくなった場所だけが、空洞のように残った。


だから新しい手を借りなかった。


借りなければ、返す必要もない。


預けなければ、失った時に取り戻す必要もない。


誰にも近づかれない場所にいれば、もう一度いなくなられることもない。


それでも、本当に誰の声も届かなくなることだけは怖かった。


アルトはガルドの手が届く少し手前で止まった。


手を伸ばさなかった。


ダンのように腕を掴まない。

魔物のように内側へ入らない。


ガルドを自分の側へ引き寄せようとも、自分をガルドへ預けようともしなかった。


ただ、そこに立った。


「何しに来た」


アルトは答えようとした。


言葉は出なかった。


黒い筋が二人の足元を探るように揺れている。魔物もまた、アルトが何をしようとしているのか測っているようだった。


「まだ」


声が途切れた。


ガルドが待った。


「何もできない」


アルトは言った。


ガルドの口元が歪んだ。


「なら下がれ」


アルトは下がらなかった。


助けると言うこともできなかった。


任せろとも、信じろとも言えなかった。


そのような言葉を口にすれば、自分が嘘をついていることだけは分かった。


今のアルトにできるのは、何もできないことを隠さず、そのままそこへ残ることだけだった。


ガルドがもう一度何かを言おうとした。


黒が先に動いた。


一本の筋がアルトの足首へ触れた。


冷たさはなかった。熱もなかった。ただ、濡れた指で皮膚の上を探られているような重さがあった。


黒は裾の内側へ入り、脛を一周した。膝の裏でしばらく止まり、そこから三本に枝分かれした。


一本は剣を握る腕へ向かった。


一本は胸の中央へ。


もう一本は、下ろしたままの空いた手へ伸びた。


魔物は入口を探していた。


剣を握る手には、斬るものを求めた。


胸の奥には、ガルドを自分の側へ引き寄せたい願いを探した。


空いた手には、誰かに掴んでもらいたい願いか、誰かを完全に拒みたい願いを探した。


どれも見つからなかった。


アルトはガルドを救えると思っていなかった。


一つになりたいとも思っていなかった。


離れてしまえば楽になることは知っていたが、今は離れなかった。


黒い筋は胸元で何度か輪を作った。鍵穴のない扉へ、形の違う鍵を順番に差し込んでいるようだった。


アルトは動かなかった。


受け入れたわけではない。


拒んだわけでもない。


ただ、相手の中へ入らず、自分の中へも入れず、二人のあいだにある距離をそのまま残していた。


魔物には、その距離の意味が分からなかった。


繋がるとは、混ざることだった。


離れるとは、見えなくなることだった。


近くにいながら境界を越えないという形を、魔物は持っていなかった。


黒い筋が細かく震え始めた。


剣を握る腕へ向かった一本は、刃まで届かずに垂れた。胸元を探っていた一本は何度も輪を作り、そのたび小さくなった。空いた手へ伸びた一本は、掌の手前で止まり、掴むものを見つけられないまま形を崩した。


床へ落ちた黒は液体のようには広がらなかった。自分の重さを支えられなくなった虫の脚のように、何度か縮み、それからガルドの影へ引き返していった。


ミアが小さく息を吸った。


ノアはその動きを見つめた。


「入れない」


誰に向けたのでもなく言った。


ガルドがアルトを見る。


ダンの手はまだ腕にあった。黒はダンへ入り込もうとしているが、ダンの輪郭までは奪えていない。


レオは病人を支えていた。

ミアはガルドから目を逸らしていなかった。

ノアは書かずに見ていた。


誰もガルドの中へ入ろうとはしていなかった。


誰もガルドを自分のものにしようとはしていなかった。


それでも、誰も離れてはいなかった。


ガルドの肩が大きく揺れた。


黒が内側へ引き返す。


戻りきる直前、首筋の皮膚と影のあいだに細い空白が現れた。


そこだけ、黒の動きとガルドの呼吸が重ならなかった。


ガルドが息を吸う。


黒は一瞬遅れて縮む。


ガルドが指を開く。


黒い指は閉じたまま残る。


それは境目と呼ぶにはまだ薄く、目を逸らせばなくなってしまいそうな隙間だった。


それでもアルトには見えた。


ガルドの身体と、その身体を使おうとしているものが、ほんの一瞬だけ別々の動きをしていた。


アルトは動かなかった。


ガルドも、もう下がれとは言わなかった。


二人のあいだには、誰のものでもない距離が残っていた。


黒だけが、その距離をどう埋めればよいのか分からずにいた。

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