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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一本の線』第三節 決まっていたもの

第三節 決まっていたもの


ダンとガルドのあいだには、まだ剣一本分の距離が残っていた。


病人たちの呼吸は浅く、揃ってもいなかった。誰かが咳をするたび、石壁が小さく音を返し、そのたび砦の中の静けさが少しだけ形を変えた。


アルトは剣を構えたまま、ガルドを見ていた。


病人たちへ伸びていた黒は消えている。床に倒れた身体からは、もうガルドへ向かおうとする力が抜けていた。


それでも、ガルドの肩から背中にかけて残ったものだけは、内側から呼吸するように膨らみ、縮んでいた。


ガルドが顔を上げた。


「いつまでそうしてる」


アルトは答えなかった。


「斬るなら斬れ」


ダンがわずかに身じろぎした。


「黙ってろ」


「お前に言ってねえ」


ガルドはアルトから目を外さなかった。


「俺を斬れば止まるのか」


「分からない」


アルトの声は、自分の足元へ落ちた。


黒いものが一度ふくらみ、ガルドの息より少し遅れて縮んだ。


「なら、何を迷ってる」


答えはなかった。


ガルドを斬れば止まるのかもしれない。止まらないのかもしれない。刃が魔物だけを通るのか、それともガルドがこれまで誰かへ伸ばしてきたものまで断つのか、その境目が見えなかった。


ガルドは剣先を見た。


「今までも、選んできたんだろう」


その言葉に、責める響きはなかった。


ただ、そう見えたから言っただけだった。


アルトの前に、二つの手があった。


父の手だった。


母の手だった。


父の袖には土がついていた。母の指には、小麦粉の白い跡が残っていた。どちらもこちらへ伸び、どちらも同じくらい近く、同じくらい遠かった。


右手を動かしかけた。


止まった。


左手も、同じ場所で止まった。


地面が揺れた。誰かが名前を呼んだ。父の指が遠ざかり、母の手も見えなくなった。


最後に残ったのは、自分の掌だった。


二つとも空いていた。


その手に、いつからか剣があった。


最初に斬った魔物の顔は覚えていない。斬ったあとで人々が息をつき、誰かが勇者と呼んだことだけが残っている。


次も同じだった。


魔物がいた。

人がいた。

そのあいだに剣を入れた。


右の村へ向かう間、左の空で煙が上がった。負傷した仲間を背負えば、追っていた影は森の奥へ消えた。それでも歩けたのは、進む方角が先に置かれていたからだった。


人を守る。


魔物を倒す。


より多くを残す。


勇者なら進む。


誰かが声に出して命じたわけではない。けれど世界は最初から、その形しか持っていないように見えた。


だからアルトは剣を振った。


選んだのだと思っていた。


そう思っていれば、次の朝も歩けた。


火のそばで剣を拭いていた夜があった。布はすでに黒く汚れていたのに、アルトは同じ場所を何度も擦っていた。


リシアは少し離れたところに座り、火へ細い枝を一本くべた。


「また、いない人の方を見てる」


アルトは顔を上げなかった。


「見てない」


「そう」


それ以上、リシアは何も言わなかった。


枝が火の中で折れた。火の粉が一つ舞い上がり、夜の途中で消えた。


あの頃には、まだ次があった。


朝になれば道があり、魔物がいれば斬る理由があり、仲間が歩けば自分も歩いた。


誰かが前へ進めば、足を止めずに済んだ。


選んだあとには、誰かがそれでよかったと言った。言わなくても、世界の方がそういう顔をしていた。


魔王を倒すまでは。


「おい」


ガルドの声がした。



レオが病人の身体を抱え直していた。膝が床を擦り、乾いた音を立てた。命じられたわけでもないのに、自分より大きな身体が倒れないよう肩を差し入れていた。


ミアは女の額へかかった髪を横へ払った。女が咳き込むと、その背中をゆっくり撫でた。


ノアは開いたままだったノートを見下ろし、やがて何も書かないまま閉じた。


ダンはガルドの前に立っていた。


誰もアルトの指示を待っていなかった。


誰も、どちらを選べと迫っていなかった。


それなのに、アルトの手は剣を握ったまま動かなかった。


ガルドが言った。


「聞こえてるのか」


「ああ」


「今までも、選んできたんだろう」


同じ言葉だった。


けれど今度は、さっきより深い場所へ落ちた。


選んできた。


村を。仲間を。人を。世界を。


そう思っていた。


けれど、人を守ることも、魔物を斬ることも、前へ進むことも、アルトが決めるより先に決まっていた。


迷う時間は短かった。迷っているあいだにも、何かが失われたからだ。


剣を振れば誰かが残り、振らなければ誰かが消えた。だからアルトは、選択そのものより、遅れないことを覚えた。


それを選んだのだと思っていた。


そうでなければ、あまりにも多くのことを、自分ではない何かに動かされてきたことになる。


「だったら今度も選べ」


ガルドが言った。


ダンが振り返る。


「ガルド」


「黙ってろ」


今度はガルドがダンを遮った。


「こいつが決める」


その言葉に、胸の奥が縮んだ。


決める。


父と母のあいだに立った時と同じだった。


片方を残せば、片方が消える。


何かを選べば、選ばなかったものに自分で背を向けることになる。


けれど何も選ばなくても、やはり失われる。


幼い日のアルトは、それを知らなかった。


勇者になったアルトは、それを知りすぎていた。


魔王を倒したあと、次の道はなかった。


斬るべきものも、進むべき方角も、誰かが差し出す答えもなかった。残ったのは、それまで自分が選んだと思っていたものと、そのたび置いてきたものだけだった。


だから見ないようにした。


見れば、また決めなければならない。


誰かの声を聞けば、また手を伸ばすか、引くかを選ばなければならない。


アルトは世界から離れたのではなかった。


次の選択が来ない場所まで、自分を小さくしただけだった。


「……今までは」


声が喉につかえた。


ガルドが待った。


アルトは剣を見た。刃にはガルドと、その背後にある黒が同じように映っていた。ダンの肩も、床にいるレオたちも、細く歪み、境目をなくしていた。


「今までは、決まってた」


ガルドの眉が動いた。


「何が」


言葉は、長く開けていない扉の向こうにあった。押しても動かず、引けばもっと固く閉じる。


「斬るものが」


それだけ言うと、息が続かなかった。


ガルドは黙った。


ダンも何も言わなかった。


レオは病人の背中を支えていた。ミアはその横で小さく呼吸していた。ノアは閉じたノートを胸元に抱えていた。


ここには、最初から敵と呼ばれたものがいなかった。


魔物はガルドの中にいる。


けれどガルドはまだ話している。


まだ病人を気にし、ダンを遠ざけ、自分だけが残った理由を知ろうとしている。


世界は、どちらを斬ればいいのか教えなかった。


アルトの腕から、少しずつ力が抜けた。


剣先が下がる。


決めたからではなかった。


選ばないと決めたわけでもなかった。


ただ、これまでのように振るうための答えが、どこにもなかった。


刃は床へ触れる寸前で止まった。


ガルドがそれを見る。


「斬らねえのか」


アルトは答えなかった。


答えられなかった。


以前なら、答えられないままでも剣を振った。


誰かが死ぬ前に。

何かが手遅れになる前に。

勇者でいる時間が途切れる前に。


けれど今、その剣は動かなかった。


レオの腕が病人を支えていた。ミアの手が背中を撫でていた。ノアは書かずに見ていた。ダンはガルドの前から退かなかった。


アルトが選ばなければ、すべてが止まるわけではなかった。


そのことを、アルトはまだ言葉にできなかった。


黒いものが大きく脈打った。


ガルドは動いていない。


それでも、その背後にあるものだけが、下がった剣先へ反応するように輪郭を縮めた。


ガルドが息を止める。


黒は一度だけ、遅れて膨らんだ。


ミアが顔を上げた。


「いま、ちがった」


ノアもガルドを見る。


アルトは剣を上げなかった。


ただ、下がった刃の向こうにいるガルドを、今度は目を逸らさずに見た。


ガルドはそこに立っていた。


その後ろで、ガルドではないものだけが、わずかに身を引いた。

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