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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一本の線』第二節 残ったもの

第二節 残った者


剣が下りた。


刃は誰にも触れなかった。ただ、病人たちの身体を縫うように走っていた黒い筋だけが、張りつめた糸のように震え、その一本が音もなく途切れた。続いて二本、三本と切れていき、ガルドへ向かっていた人々の足から、同じ瞬間に力が抜けた。


膝が床を打った。


壁に肩をぶつける者がいた。前へ倒れた男を、レオが胸元で受け止めた。男の指はしばらくレオの服を強く掴んでいたが、やがて自分が何を握っているのか忘れたように緩んだ。


「ミア、そっちを」


レオが言うと、ミアは返事をせず、倒れた女の頭を両手で支えた。金色の髪が女の頬へかかり、一本だけ跳ねた毛先が、浅い呼吸に合わせて揺れた。


ダンは別の男を仰向けにし、口元へ手を寄せた。


「息はある」


誰に聞かせるともなく言った。


病人たちはもう進まなかった。ガルドへ伸ばしていた腕も、床の上に落ちたまま動かなかった。


ガルドの周囲だけが空いた。


彼はその空間を見下ろし、次に自分の手を見た。指を曲げ、開き、袖の上から腕を払ったが、何かが落ちることはなかった。


病人たちから切れた黒い筋は、床へ沈みもしなければ、空気へ消えもしなかった。ほどけた端がゆっくりと引き戻され、ガルドの肩や背中へ重なっていく。細い筋は一本ずつ輪郭を失い、初めからそこにあった影の中へ帰っていった。


ノアはノートを開いていた。


鉛筆の先が紙の上で止まっている。数を書こうとしたのか、小さな点だけが一つ残り、その先には何も続かなかった。


「……あいつらは」


ガルドが言った。


ダンは男の胸へ手を置いたまま答えた。


「生きてる」


「そうか」


声には安堵があったはずだった。しかしそれは水に落とした石のようにすぐ沈み、顔には何も残らなかった。


ダンは男の身体をレオへ預けた。


「首を起こしすぎるな」


「分かってる」


レオはそう答えたが、男の頭を支える手を少し下げた。


ダンは立ち上がり、ガルドの方へ歩いた。床には倒れた身体や割れた器が散らばっていたが、彼は一度も足元を見なかった。


ガルドは近づいてくるダンを見ていた。


二人のあいだに残った距離は、戦場なら剣一本分だった。ダンはそこで止まった。手を伸ばせば肩に届いたが、伸ばさなかった。


「何だ」


ガルドが訊いた。


「お前こそ何だ」


「見りゃ分かるだろ」


「見ても分からんから来た」


ガルドは鼻から短く息を吐いた。その癖だけは以前と変わらなかったが、吐いた息の終わりに黒いものがわずかに膨らみ、遅れて縮んだ。


ダンはそれを見なかった。


倒れている病人たちを顎で示した。


「全員止めたのか」


「来た奴だけだ」


「全員来ただろうが」


ガルドは答えなかった。


「逃げればよかった」


「お前もいただろ」


「俺は逃げろと言った」


「聞こえなかった」


「嘘をつけ」


「忘れた」


昔にも同じことがあったのだろう。ダンの声には怒りより先に、何度も同じ場所へ戻ってきた者の疲れがあった。


ガルドは目を逸らさなかった。


「置いていけなかっただけだ」


それを言ったあと、自分でも少し妙に思ったらしく、口元がわずかに歪んだ。


「だけ、か」


ダンが言った。


「それ以外に何がある」


ダンは返さなかった。


アルトには、病人たちから消えた黒が見えていた。外側から身体へ入り込み、足や腕をガルドへ向けていたものは切れている。


ガルドに残ったものだけが違った。


黒は彼の周囲にまとわりついているのではなかった。倒れた者の腕を取った手、戻れと言われても戻らなかった足、誰かが残っているかぎり最後尾を離れなかった身体、そのすべてを通って、内側へ入り込んでいた。


ガルドが病人たちを掴んだのか。


魔物がガルドを掴んだのか。


今となっては、その順番にも意味がなかった。


アルトの剣が小さく鳴った。


ガルドがこちらを見た。


刃がまだ自分へ向いていることを確認し、それから床へ目を落とした。倒れた人々と自分との間には、数歩分の何もない場所があった。


「離れたな」


ダンは振り返らなかった。


「倒れただけだ」


「同じだろ」


「違う」


ガルドは黙った。


病人の一人が身じろぎした。目は閉じたままだった。床の上を探るように指を動かし、そばに落ちていた白い布を掴んだ。


ガルドの腰にも同じ布が結ばれていた。


裂いた切れ端なのだろう。血で汚れてはいたが、男はそれを握ると、呼吸を少しだけ深くした。


ダンはその手を見た。


それからガルドへ顔を戻した。


「誰も、お前に離されたとは思っていない」


ガルドの眉が動いた。


「何の話だ」


「分かってる顔するな。昔から下手なんだよ」


「何がだ」


「置いてきた顔だ」


ガルドは口を閉じた。


ダンは一歩も近づかなかった。それでも退きもしなかった。


「お前はいつも最後に残る。残ったくせに、後になって自分だけ置いてきたみたいな顔をする」


「説教なら後にしろ」


「後があるならな」


黒いものが一度、大きく脈打った。


ダンの上着の裾が、風もないのに持ち上がった。レオが顔を上げ、ミアは女の頭を支えたままガルドを見た。


ガルドだけが動かなかった。


「なら」


彼は自分の掌を見た。


「何で俺だけ残ってる」


ダンの口が少し開き、閉じた。


戦場でなら、傷の深さも、退く方角も、残った水の量も答えられただろう。しかし目の前にいる男のどこまでがガルドで、どこからが別のものなのか、ダンには見えなかった。


「知らん」


そう言った。


ガルドが笑った。


笑ったように見えただけかもしれなかった。


「役に立たねえな」


「今さら気づいたか」


「昔から思ってた」


「だったら離れろ」


ガルドは答えなかった。


ダンも続けなかった。


二人のあいだには剣一本分の距離が残っていた。その距離を埋める者も、広げる者もいなかった。


アルトは柄を握ったまま、ガルドの内側を通る黒を見ていた。


病人たちへ伸びていた繋がりは切れた。魔物が外から差し込んだものだったからだ。


だがガルドに残ったものは、彼自身が伸ばした手と重なっている。


誰かを救うと決めたからではない。


見捨てないと誓ったからでもない。


決める前に身体が動き、声をかける前に戻り、考える前に最後へ回る。その生き方だけが、魔物の入り口として開いたままになっていた。


アルトは剣を振るえなかった。


ガルドと魔物を分ける場所がないのではない。


切れば、ガルドがこれまで誰かへ伸ばしてきたものまで断つことになる。


ミアが立ち上がった。


「ガルド」


呼ばれた男は顔を向けた。


「なに」


今度の返事は、少しだけ早かった。


ミアはそれ以上言わず、また病人のそばへ座った。


ノアは鉛筆を握り直したが、まだ何も書かなかった。レオは男の身体を支え、ダンはガルドの前に立ち続けていた。


誰も離れていなかった。


それでも、ガルドの内側に入ったものだけが、離れようとしなかった。

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