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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一本の線 』 第一節 名前

第一節 名前


 ガルドはまだ、そこにいた。


 顔も、声も、肩の傾きも変わっていない。病人に掴まれた右腕は黒い筋の下に半分ほど沈み、靴の輪郭は石畳との境で曖昧になっていたが、眉間に寄った皺だけは普段のままで、面倒な荷物をどう運ぶか考えているときと大して違わなかった。


 それなのに、アルトには、その男をガルドと呼ぶことができなかった。


 名前が思い出せないわけではない。音も、その音へ結びつく顔も知っている。谷で初めて見た横顔や、白い花を捨てられずにいた指、病人を立たせたあと、相手が自分の足で歩けると分かれば手を離す、そのわずかに不器用な仕草まで覚えている。それらは確かに一人の男へ続いているはずなのに、最後のところで糸がほどけ、名前だけが宙に浮いていた。


 病人たちの呼吸が揃った。


 誰かが息を吸うと、広間の壁がわずかに膨らみ、別の誰かが吐き出すと、ガルドの足元を覆う黒さが同じ間で沈んだ。さきほどまで石と人を分けていた小さな音は消え、再びすべてが一つの身体へ戻ろうとしている。


 アルトは聖剣を構えたまま、刃を下ろせずにいた。


 剣を振れば何かは切れる。長い旅の中で、それだけは一度も裏切られなかった。魔物の腕も、世界の歪みも、人と人でないもののあいだに残された細い場所も、聖剣は正確に通り抜けた。


 今は、その細い場所だけがない。


「ガルド」


 ダンが呼んだ。


 声は大きくなかった。遠くにいる者へ届かせる呼び方ではなく、同じ焚き火を囲んでいる相手へ酒を渡すときのような、低く平らな声だった。


 ガルドはすぐには答えなかった。


 聞こえなかったのかもしれない。病人たちの呼吸や石の軋みが重なり、声が届くまでに時間がかかっただけとも考えられた。だが、その間にガルドの目は一度だけ揺れ、自分が呼ばれたのかどうか、周囲を確かめるように動いた。


「……ああ」


 返事は半拍遅れて落ちた。


 ダンは何も言わなかった。返事があったことへ頷くでもなく、遅れを問いただすでもなく、ガルドの顔を見たまま立っている。


 同じ傭兵団にいた頃、戦場では名前より先に声へ反応した。叫び方や息の切れ方で、誰がどの距離にいて、どの程度の傷を負っているか分かった。名前を呼ばれてから振り向くようでは遅い場所だった。


 ダンは、その遅れを知っていた。


「もう一度呼べ」


 アルトが言った。


 自分でも驚くほど乾いた声だった。喉の内側に砂が残り、言葉がその上を擦って出てきたように聞こえた。


 ダンはアルトを見なかった。


「ガルド」


 今度は少しだけ強く呼ぶ。


 ガルドの眉が動いた。


 返事はない。


 黒い筋が首元へ一つ進み、皮膚の下へ沈んだ。ガルドはそれを見下ろしている。自分の身体を見ているはずなのに、他人の傷を確認しているような距離があった。


「おい」


 ダンが言った。


 ガルドは顔を上げた。


「……何だ」


 さきほどより遅かった。


 レオが木剣を握り直した。掌に滲んだ汗で柄が滑り、握る場所を少し下へずらす。何かを斬れる剣ではないし、目の前の黒いものへ振り下ろせば、そのまま飲み込まれることも分かっていた。


 それでも、手放すことはできなかった。


 病人の一人がガルドへ向かって這い始めた。両手は床へ半分沈み、そのたび皮膚と石の区別が薄くなる。目は開いていたが、ガルドを見ているようには見えず、呼吸だけがほかの者と同じ長さで繰り返されていた。


 レオはその前へ出た。


「来るな」


 病人は止まらない。


「聞こえないのか」


 木剣の先を病人の胸元へ当て、押し返す。力を入れすぎれば倒してしまうし、弱ければガルドまで届く。レオは腰を落とし、木剣を両手で持ったまま、病人の身体を支えるように止めた。


 戦う構えとは違った。


 足は開きすぎず、踏み込むための余白もない。倒すためではなく、倒さないために力を使う姿勢だった。


 病人の身体が前へ出る。


 レオは押し返す。


 また前へ出る。


 今度は半歩だけ下がり、そのぶんを木剣で受け止める。


 腕が震えた。掌の傷が開き、柄へ赤い跡が滲んだが、レオは目を逸らさなかった。


「ここは通さない」


 声は裏返りかけていた。


 格好よく言えたとは思わなかった。誰かに聞かせようとしたわけでもない。ただ、言葉にしておかなければ、自分の足が次の瞬間には逃げてしまいそうだった。


 もう一人の病人が身体を起こす。


 レオはそちらを見る余裕がなかった。


 ダンが回り込み、病人の肩へ毛布を投げた。直接触れないよう布越しに身体を受け止め、そのまま床へ寝かせる。


「一人ずつだ」


 レオへ言ったのか、自分へ言ったのか分からない声だった。


「はい」


 レオは歯を食いしばった。


「返事はいい。足を見ろ」


 病人の右足が木剣の脇を抜けようとしていた。レオはすぐに剣先を下げ、足元を塞ぐ。胸ばかり見ていれば、別のところから抜けられる。そんなことを教わった覚えはなかったが、ダンの一言で身体が動いた。


木剣を振りつづけながら、レオは強くなることばかり考えていた。速く振り、深く踏み込み、相手より先に当てる。そのために毎日同じ動きを繰り返した。


 今、木剣は誰にも当てられなかった。


 それでも、必要だった。


 ミアはレオの後ろからガルドを見ていた。


 金色の髪の一本だけが、いつものように頭の上で跳ねている。広間を流れる冷たい風に揺れ、ほかの髪が頬へ張りついても、その一本だけは別の方向を向いていた。


「おじさん」


 ミアが呼んだ。


 ガルドは反応しない。


「おじさん」


 もう一度呼ぶ。


 ガルドの目が動いた。


「……何だ」


 ミアはしばらく首を傾げていた。ガルドの顔を見ているようでもあり、その少し後ろにいる誰かを見ているようでもある。


「おじさん」


「さっきから何だ」


「名前」


 ガルドの眉間の皺が深くなる。


「名前がどうした」


 ミアは少し考えた。


「忘れた?」


「何をだ」


「自分の」


 レオが振り返りかけた。


「ミア、今は――」


「忘れてねえよ」


 ガルドが答えた。


 その返事は早かった。


 レオは少しだけ息を吐き、すぐ病人へ向き直った。ダンの肩からも、目に見えない重さがわずかに落ちたように見えた。


 ミアだけは頷かなかった。


「じゃあ、言って」


 ガルドは口を開いた。


 音は出なかった。


 答えが分からない顔ではなかった。問いの意味が分からない顔とも違う。すぐそこにあるものを取ろうとして手を伸ばしたのに、指先だけが何もない場所を通り抜けたような顔だった。


 黒い筋が、喉元で一度脈を打った。


 病人たちの胸が同じ間で持ち上がる。


 壁の奥から、低い音が返ってきた。


 ミアはガルドを見上げたまま待っている。急かさない。答えを教えようともしない。ただ、ガルド自身の口から、その音が出てくるのを待っていた。


「……ガルドだ」


 ようやく声が出た。


 言葉は正しかった。


 けれど、その名前は少し遠い場所から借りてきたもののように、口の中で馴染まずに残った。


 ミアは目を細めた。


「ちがう」


 ガルドの顔が険しくなる。


「何がだ」


「ガルド」


「だから、俺がガルドだ」


「うん」


 ミアは頷いた。


 少し間を置き、もう一度首を傾げる。


「でも」


 そこから先の言葉を探すように、唇をわずかに動かした。


「だれ?」


 広間から音が消えたわけではなかった。レオの木剣は病人の身体を押し返し、ダンの靴は床の水を踏み、揃った呼吸はなお続いている。それでも、ミアの問いだけがほかの音から切り離され、長いあいだ空中へ残った。


 ガルドは答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 アルトの聖剣が、ほんの少し下がった。


 ガルドという音は残っている。


 だが、その音を内側から支えるものが薄くなり始めていた。名前を失ったのではない。名前と、その名で呼ばれる人間のあいだに、細い隙間が生まれている。


 魔物はそこへ入ろうとしていた。


 ノアは胸元へ手を伸ばした。


 ノートを取り出す。


 表紙を開く。


 最初の頁へ指を置き、いつものようにペンを走らせようとしたが、何を書けばよいのか分からなかった。


 ガルドの輪郭が薄れている。


 名前への反応が遅れている。


 呼吸が病人と揃っている。


 書くべき事実はいくつもあった。けれど、それらを並べたところで、目の前で失われつつあるものへ届くとは思えなかった。


 ノアはノートを閉じた。


 音が小さく響く。


 レオがその音に気づいた。ノアが記録をやめるところを、初めて見た気がした。


「ノア?」


「今は書かない」


「分かったのか」


「分からない」


 答えは早かった。


 レオは驚いてノアを見る。


 ノアは視線を逸らさなかった。分からないことを恥じる様子も、言い訳を探す様子もなく、ただ閉じたノートを両手で持っている。


「でも、見ます」


「何を」


「ガルドを」


 ノアはそう言って、黒いものではなくガルドの顔を見た。


 アルトも同じ場所へ視線を戻した。


 ガルドはいる。


 そう思う。


 次の瞬間には、ガルドという名だけがそこへ置かれ、人の方が少し離れた場所へ沈んでいるように見えた。


 アルトは名前を心の中で呼んだ。


 ガルド。


 返事はない。


 もう一度呼ぶ。


 すると、黒い筋が答えるように脈を打った。


 アルトは息を止めた。


 呼びかけに反応したのは、ガルドだったのか。


 それとも魔物だったのか。


 剣を握る右手が固くなる。世界はまた、選択を差し出している。正しい方を選べと、間違えれば誰かが消えると、言葉を使わずに迫ってくる。


 ミアがアルトの横へ来た。


 いつの間に移動したのか分からなかった。裸足の足裏は床の黒さへ触れないぎりぎりの場所で止まり、前髪の隙間からガルドを見ている。


「アルト」


「何だ」


「まだ」


 ミアはそこで言葉を切った。


 ガルドの呼吸が、病人たちと同じ間で深くなる。首元の筋がまた一つ増え、顎の近くまで届いた。


 ミアはそれを見て、今度は少しだけ大きな声で言った。


「まだ、いる」


 アルトはガルドを見る。


 何が残っているのかは分からない。


 名前かもしれない。


 声かもしれない。


 あるいは、誰も置いていけなかった男が最後まで手放さずにいる、本人にさえ名前をつけられない何かかもしれなかった。


 けれど、ミアには見えている。


 ガルドはまだいる。


 完全に一つになってはいない。


 一本の線は、失われたのではなく、見えなくなっているだけなのかもしれない。


 レオの木剣が病人の足を止める。


 ダンがもう一人を毛布で受け止める。


 ノアはノートを閉じたまま、ガルドを見ている。


 誰も答えを持っていなかった。


 それでも、誰も動くことをやめていなかった。


 アルトは聖剣を構え直した。


 ガルドを斬るためではない。


 まだ見えない一本の線が、再び世界へ浮かび上がる、その瞬間を逃さないためだった。

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