『一つ』第五節 離れたもの
第五節 離れたもの
ノアがアルトの右手を見た、その直後だった。
広間の中央に残っていた黒さは、すでに半分以上が石の色へ紛れていた。輪郭は薄く、窓から差し込む光が少し傾けば、そこには何もなかったと言われても信じられそうだった。水なら乾いた跡を残し、煤なら指でなぞれる黒さを残すはずだが、それは何も残さず、自分が存在した時間まで床の中へ持ち去ろうとしているように見えた。
アルトの身体は、それを消滅とは受け取らなかった。
聖剣を握る指が、もう一度深く閉じる。息を止めた覚えはなかったが、肺には空気が入ってこず、広間に戻り始めていた水音や咳も、薄い壁を隔てた向こう側から聞こえるように遠ざかっていた。
ガルドに支えられていた男は、自分の足で半歩を進んだ。膝はまだ危うく、石畳の上に置かれた右足も、本当にそこへ置いてよいのか迷っているように震えていたが、ガルドの手はすでに離れている。
その瞬間、消えかけていた黒さが内側へ沈んだ。
広がったのではなかった。床に残っていた薄い影が、深い場所から息を吸い込むように一斉に縮み、点に近い濃さまで集まったあと、石の継ぎ目という継ぎ目へ黒い筋を走らせた。広間の中央からガルドの足元まで、距離というものが最初から存在しなかったかのような速さだった。
「離れろ!」
アルトの声に、ガルドは振り返らなかった。何から離れろと言われたのかを確かめるより先に、男の身体が大きく傾いたからだ。
ガルドは反射的に腕を伸ばした。
男の肩を掴む。
男もまた倒れまいとして、ガルドの袖を掴んだ。
そこまでは、人が人を支えるときに起きる、ごく普通のことだった。
次の瞬間までは。
男は自分の足で立ち直ったが、袖を掴んだ指は開かなかった。力を込めているようには見えず、手首から先にはむしろ不自然なほど力が抜けていたのに、五本の指だけが布の上へ残り、濡れた紙が張りつくように、袖との境目を失い始めていた。
「手を離せ」
ガルドが言った。
「離してる」
男の返事は、冗談を言うときの調子に似ていた。ただし口元は笑っておらず、目だけが自分の手とガルドの袖の間を往復していた。
ガルドは男の手首を掴み、指を一本ずつ外そうとした。親指へ触れたとき、布の下で黒い筋が脈を打ち、男の腕とガルドの腕が同じ角度へ跳ねた。
男が声を上げる。
その声へ応じるように、広間の壁が一度だけ膨らんだ。
病人たちの胸も、同じ間で持ち上がった。
さっきまでばらばらだった咳と呼吸が、また一つの拍へ戻り始めている。最初は二人だけだった。次に壁際の三人が同じ長さで息を吸い、その少しあとで、眠っていた者たちの喉が揃って鳴った。
ノアは人数を数えなかった。
数えるより早く増えていた。
「ガルドから離れて!」
「離せると思うか」
ガルドの声に苛立ちはあったが、恐怖はまだなかった。袖を裂こうと短剣へ手を伸ばしたものの、刃先が布へ触れた瞬間、金属の表面を黒い水が走り、柄を握る指まで冷たさが上がってきた。
ガルドは短剣を投げ捨てた。
短剣は床へ落ちなかった。刃先だけが袖へ沈み、途中から布とも金属ともつかない平らな黒さへ変わり、男の指とガルドの腕のあいだへ取り込まれていった。
ダンが歩み寄ろうとする。
「触るな」
アルトが止めた。
ダンは足を止めたが、ガルドから目を離さなかった。同じ傭兵団にいた頃、撤退の笛が鳴っても振り返り続けた男の顔を知っている。今のガルドも、倒れそうな病人を前にしたときと同じ顔をしており、自分の腕が失われかけていることより、掴んだ男をどう立たせるかを先に考えているようだった。
「そいつを座らせろ」
ダンが言った。
「座らせたら、床まで繋がる」
ガルドは短く答えた。
それだけでダンは黙った。
男の靴は、すでに石畳へ沈み始めていた。革が溶けたわけではない。靴底の厚みだけが消え、足と床の間にあったはずのわずかな隙間が、最初から存在しなかったもののように閉じている。
アルトは聖剣を上げた。
床と靴。
男の指と袖。
袖とガルドの腕。
境目はまだ見えるはずだった。さきほどまで人と砦を分けていた細い線が、どこかに必ず残っているはずなのに、目を凝らすほど輪郭は別の輪郭へ滑り込み、視線だけが同じ場所を何度も通り過ぎた。
斬る場所がない。
その事実は、恐怖という形を取る前にアルトの身体へ届いた。右足が一歩だけ後ろへ下がり、聖剣の切っ先がわずかに揺れた。
「アルト?」
レオが呼ぶ。
返事はできなかった。
病人の一人が、這うようにガルドへ近づいていた。自分の意思で動いているようには見えず、目も半分閉じられている。それでも身体は迷わずガルドの方角へ向かい、両腕を床へつくたび、手の形が石へ少しずつ沈んでいった。
もう一人が身体を起こす。
その隣も。
広間の各所に散らばっていた病人たちが、ゆっくり同じ方向へ向きを変え始める。砦へ取り込まれていたときには、壁や床が彼らを引いていた。今は違う。
中心にいるのはガルドだった。
ミアがレオの袖を掴んだ。
「近づいちゃだめ」
「でも、ガルドが」
「ガルドだから」
レオは意味を聞き返さなかった。ミアの声に説明はなかったが、説明より先に身体を止める何かがあった。
床を這っていた病人の指が、ガルドの靴へ触れた。
その瞬間、ガルドの足元から黒い根が噴き出した。
根は床を破らなかった。石の模様がそのまま黒く盛り上がり、細い指のような形を取りながら病人の手首へ巻きつくと、触れた場所から皮膚の色と石の色が混ざり始めた。
広間の空気が冷えた。
湿った土の匂いが広がり、その奥に、古い血を水で薄めたような鉄の匂いが混じる。アルトはその匂いを知っていた。世界の輪郭が壊れるとき、形より先に匂いが変わる。
ガルドの肩の向こうに、黒い腕が見えた。
いや、ガルドの腕だった。
瞬きをすると、また黒い腕に戻る。
黒さがガルドへ寄っているのではない。ガルドが黒さへ呑まれているのでもない。二つの形が同じ場所を使い始め、どちらか一方だけを指し示すことができなくなっていた。
ガルドが肘を曲げる。
病人の腕も曲がる。
黒い根が揺れる。
三つの動きに順番がなかった。
アルトは聖剣を向けた。
刃先はガルドの胸へ向いていた。
「おい」
ダンの声が落ちた。
責めたのではない。ただ、かつて遠くの戦場で勇者を見た男が、今のアルトの構えだけは見過ごせなかった。
「そこなのか」
アルトは答えない。
「魔物は、そこなのか」
「分からない」
声にしたあとで、その言葉の重さが広間へ残った。
勇者が、分からないと言った。
レオがアルトを見る。ノアも見る。ダンだけはガルドから視線を外さなかった。
アルトには魔物が見えていた。
ガルドも見えている。
それなのに、その二つを分ける一本の線だけがない。
聖剣を振れば、何かは切れる。
だが、それが何なのか分からない。
ガルドかもしれない。
魔物かもしれない。
あるいは、ガルドをガルドとして世界へ繋ぎ留めている、最後の何かかもしれなかった。
ノアが一歩前へ出た。
「アルト、まだ斬らないで」
「時間がない」
「分かってる」
「分かってない」
アルトの声が低くなる。
「これ以上広がれば、砦の外まで行く」
ノアは黙った。
言い返せなかったのではない。アルトが見ているものの一部を、彼女もようやく理解し始めていた。
黒い根はガルドから病人へ広がっているのではなかった。触れた者同士の間で増え、そのたび中心をガルドへ置き直している。ガルドが誰かを支えようとするたび、魔物はその行為を入口にして、支える者と支えられる者の区別を消していた。
ガルドは、誰も置いていかなかった。
魔物は、それを離さないことだと思った。
その誤りが、現実の形を持ち始めている。
病人たちの呼吸が完全に揃った。
壁が膨らむ。
床が持ち上がる。
天井から落ちる砂までも、同じ間を置いて石へ当たった。
砦全体が再び一つの身体へ戻ろうとしていた。ただし今度は、さきほどのように砦を中心としていない。
ガルドを中心にしていた。
ガルドの輪郭が、少しずつ薄くなる。
顔は見える。声も聞こえる。けれど肩の線は壁の影へ溶け、腕は病人の腕と同じ動きをし、足元は床から切り離せなくなっている。
このまま進めば、ガルドは死なないかもしれない。
死ぬより先に、ガルドでなくなる。
そのことを、アルトだけがはっきりと知っていた。
ガルドは自分の腕を見た。
次に病人たちを見た。
最後にアルトの聖剣を見る。
驚きはなかった。恐怖がなかったわけでもない。ただ、恐怖を自分一人のものとして扱うことに慣れている男の目だった。
「俺を斬れば止まるのか」
アルトは答えなかった。
「斬れないのか」
それにも答えない。
ガルドは小さく息を吐いた。
「どっちでもいい」
黒い筋が首元へ届く。声がわずかに掠れたが、視線は逸れなかった。
「止められる方をやれ」
その言葉は勇ましくも、潔くもなかった。ただ、同じ傭兵団で何度も退路を失い、それでも最後には誰かを帰してきた男が、今この場で使える言葉を選んだだけだった。
アルトの両手に、幼い日の空白が戻った。
父の手。
母の手。
どちらも伸びていた。
どちらも選べなかった。
今は右手に聖剣がある。
それでも、剣があることと選べることは同じではなかった。
病人たちの呼吸が、また一度揃う。
ガルドの姿が、その拍に合わせて一瞬だけ薄くなった。
そこにいたはずの男が、世界の向こう側へ半歩ずれたように見えた。
アルトは聖剣を握り直した。
ガルドはまだいる。
魔物もいる。
だが、その二つの間にあるはずの場所だけが、世界から抜け落ちていた。




