『一つ』第四節 似ているもの
第四節 似ているもの
アルトが魔物を退けたあと、砦には人の音が戻り始めていた。
崩れた石は床に散らばったまま、折れた梁は壁へ斜めに寄り掛かっている。それでも、先ほどまで砦そのものが呻き、病人たちが壁や床と同じ間で息をしていたことを思えば、椀へ注がれる水や、毛布を引き寄せる布の擦れは驚くほど軽く、どれも別々の場所から生まれて、その場所だけで静かに終わっていた。
誰かが咳をした。
少し離れたところで、別の誰かが寝返りを打った。
二つの音は重ならなかった。
アルトは聖剣を納めていなかった。刃先は床へ向けられ、もう何かを斬るための構えではなかったが、柄を握る右手だけが、ほかの身体よりも半歩ほど遅い時間に残されていた。
指を開こうと思えば、開けたのかもしれない。
けれど、そのためにはまず、自分が剣を握っていることを考えなくてはならなかった。考えた途端に、さきほどまで動いていた身体が、今度こそ止まってしまうような気がした。
アルトは右手をそのままにしておいた。
広間の隅では、ダンが桶から水を汲み、一人ずつ椀へ注いでいた。病人の指が震えているあいだは器の底へ手を添え、自分で支えられると分かると、言葉を挟まずに離した。
「急ぐな」
男は小さく頷いた。水を一口飲むたびに喉の奥で乾いた音がして、その音が少しずつ薄くなっていくのを、ダンは同じ場所に立ったまま聞いていた。
椀が空になる。
ダンはそれを受け取り、布で縁を拭いてから次の者へ歩いていく。礼を待つ様子も、励まそうとする気配もなく、必要な時間だけをそこへ置き、終われば持ち場を移るという手つきだった。
反対側では、ガルドが老人の肩へ腕を回していた。
「立てるか」
老人は答える代わりに、肺に残っていた息を長く吐き出した。身体の重さはまだ半分ほどガルドへ預けられていたが、膝だけは別のものになり始めていた。
震えている。
寒さとも、痛みとも少し違う震えだった。長いあいだ誰かへ預けていた自分の重さを、もう一度引き受けようとして、身体の方が戸惑っているように見えた。
ガルドは急かさなかった。
大丈夫だとも言わない。
老人の肩から伝わってくる重みの中に、ほんのわずかに別の力が混じるまで、腕の位置を変えずに待っていた。
老人の腰が少し伸びる。
膝が石畳の上で踏みとどまる。
その震えがガルドの肩へ返ってきたところで、ガルドは腕を外した。
老人は壁へ手をつき、自分の足で一歩を踏み出した。次の一歩では身体が壁の方へ傾いたが、倒れずに済んだことを確かめるように、しばらく掌を石へ押し当てていた。
ガルドはもう見ていなかった。
次の病人の前へ膝をつき、毛布の下から出ていた腕へ指を添えている。
少し離れたところで、ダンはその背中を見ていた。
椀を水へ沈める。
引き上げる。
布で縁を拭く。
その一つひとつを終えてから、ダンは独り言のように言った。
「……お前は、誰も置いていかなかったもんな」
ガルドが顔だけを向けた。
「何だ、急に」
「いや」
ダンは拭き終えた椀を桶の脇へ置き、それ以上は続けなかった。
同じ傭兵団にいた頃から、二人の会話はたいていそこで終わった。酒を飲めば値段の話をし、明日の天気を話したが、撤退の笛が鳴ったあとに誰が振り返り、誰が戻らなかったかについては、互いに尋ねたことがない。
言葉にすれば、どちらかが正しくなってしまう。
戦場には、そんなに都合のいい正しさはなかった。
ガルドは鼻で息を吐き、病人へ向き直った。ダンも新しい椀へ水を汲み、先ほどの一言を拾い直そうとはしなかった。
レオは木剣を抱えるように持ち、二人のやり取りを見ていた。
谷で初めて出会ったとき、ガルドの周りには、最初から近づいてはいけない距離が決められているように見えた。言葉は少なく、こちらを試すような目をしていて、盗賊だと聞かされなくても、同じ道を歩く人ではないことくらいは分かった。
それでも谷が崩れ、人が落ちかけたとき、ガルドの腕は考えるより先に伸びていた。
レオはあのとき怖かった。
怖いまま、ガルドを見た。
ガルドもまた、その視線に気づいていたはずだったが、二人は何も話していない。だからこそレオの中には、谷を渡る風と、木剣の柄に滲んだ汗と、ガルドの横顔が、今でもひと続きのものとして残っていた。
レオは自分の掌へ目を落とした。
木剣を振ることなら、前より少しは分かる。
けれど、人の重さがどの瞬間に自分のものへ戻るのか、それを手のひらだけで見分ける方法は、まだ知らなかった。
ミアは、眠っている若い男の毛布を掛け直していた。肩まで引き上げると足元が窮屈そうになり、足へ合わせて戻すと今度は肩が出る。
しばらく考えたあと、ミアは毛布を斜めにずらした。
男の肩も足も隠れた。
ミアは一度頷き、余った端を男の身体の下へ軽く押し込んだ。眠っている者は目を覚まさなかったが、乱れていた呼吸だけが少し長くなった。
広間の中央には、黒いものが残されていた。
アルトが魔物を退けたあとから、ずっとそこにある。水が溜まっているようにも、煤が吹き寄せられたようにも、あるいは砦が床へ落とした影の一部にも見えたが、どれと呼んでも、その言葉から少しだけはみ出していた。
誰かへ伸びることはない。
砦へ溶け戻ることもない。
動かずにいるというより、動くということ自体を忘れてしまったように、床の上へ薄く広がっている。
病人を抱えたダンが、その前を横切った。
黒いものは動かなかった。
レオが落とした木剣を拾いに近くを通ったときも、形を変えなかった。ミアの水差しから一滴がこぼれ、そのすぐそばへ丸い染みを作ったが、黒いものは水を吸うことも、避けることもしなかった。
何度確かめても、そこにあるだけだった。
ノアは、その変わらなさを見ていた。
何かが起きると知っていたわけではない。予感と呼べるほど形のあるものもなく、ただ、動かなかったという事実を一度、二度と数えるうちに、視線を外す時機だけを失っていた。
アルトも、ときどき広間の中央へ目を向けた。
右手はまだ聖剣を握っている。
だが黒いものを警戒しているのか、それとも身体のどこかが勝手にそこへ視線を戻しているのか、ノアにも判別できなかった。
ガルドは、三人目の病人の前へ立った。
まだ若い男だった。熱は下がり始めていたが、長く寝かされていたためか、脚は身体の重さをうまく引き受けられずにいる。
「慌てるな」
男は頷いた。
ガルドが脇へ腕を差し入れ、身体を起こす。足裏が床へ触れた途端に膝が崩れ、肩へ預けられる重さが急に増したが、ガルドは腕の位置を変えなかった。
男は息を整え、もう一度、足へ力を入れた。
今度は膝が残った。
ガルドの肩へ集まっていた重さが、少しずつ男自身の身体へ戻っていく。それは桶から水を一口だけ汲み出した程度の変化で、知らずに見れば何も変わっていないようにも思えた。
ガルドは待った。
男がガルドへ預けた力を、自分の足へ戻し終えるまで、何も言わずに待っていた。
やがて男は、自分からガルドの肩を押した。
「……もういい」
ガルドは腕を外した。
男は一人で立っていた。
壁にも、ガルドにも寄り掛からず、短い息を繰り返しながら、自分の足だけで石畳の上にいる。
すぐには歩かなかった。
右足を少し持ち上げ、元の場所へ戻す。もう一度持ち上げ、今度は半歩ほど前へ置いた。
誰も声を上げなかった。
褒めるほど大きな一歩ではなかったし、本人も褒められることを望んでいるようには見えない。ただ、病人と砦のあいだに、男一人ぶんの距離が戻った。
ガルドの手は、もう触れていなかった。
その瞬間、広間の中央にあった黒いものの表面へ、ごく小さな揺れが走った。
近くを人が通ったわけではない。開いた窓から風が入ったのでもなく、床へ新しい水が落ちた音もしなかった。
水面へ細い糸の先が触れ、すぐに引き上げられたときのように、波紋になる前の丸い歪みだけが生まれ、それはほどなく元の黒さへ戻った。
見ていなければ、何も起きなかったと思っただろう。
アルトがゆっくり顔を上げた。
ノアは、最初からそこを見ていた。




