『一つ』第三節 戻っていくもの
第三節 戻っていくもの
「ここまでが、魔物だ」
アルトの声が消えるより先に、壁の奥で石が鳴った。それは崩れる音ではなく、長いあいだ別のものと重なっていた石が、ようやく自分の重さだけで沈み直すときの音に似ていた。
壁から伸びていた腕の付け根に、細い影ができている。灰色の石肌はそこで途切れ、その先から、濡れた人間の腕に似た黒いものが始まっていた。
ついさっきまで、そこに終わりはなかった。
腕を斬れば壁が裂け、壁を砕けば床の下を何かが走り、床を追えば病人の呼吸へ繋がっていた。砦のどこを見ても、別の場所へ続いているだけで、それがどこから始まり、どこで終わるのかは誰にも分からなかった。
今は、腕の向こうに壁がある。
そのことを理解したのがアルトと魔物のどちらだったのかは分からない。砦全体が一度大きく軋み、壁際に寝かされていた病人たちの身体が、見えない縄で引かれたように一斉に持ち上がった。
「三人」
ノアの声が飛んだ。
指さしはしなかった。壁際の女、床へ沈み始めた老人、天井から落ちる黒い水に顔を覆われた男――アルトが既に見ていると知っている者の言い方だった。
黒い腕はアルトへ向かわず、水差しを抱えた女の肩を掴んだ。壁が先に膨らみ、そのあとを追うように女の胸が持ち上がると、吸い込まれたはずの空気は吐き出されず、石の奥で低い音へ変わった。
「順番が逆になった」
ノアは女の胸と壁を交互に見ながら言った。声は落ち着いていたが、左手の指だけが小さく動いており、何かを数えているのだと分かった。
アルトは女へ踏み込んだ。
昔なら、一歩で届いた距離だった。
今は二歩必要だった。最初の一歩で胸の奥が狭くなり、二歩目では右足の踏み込みがわずかに浅くなったが、聖剣だけはそうした遅れを知らないように、黒い腕の中央を正確に通り抜けた。
切れた腕は床へ落ちなかった。断面から噴き出した黒い水が互いへ伸び、二つに分かれたものを、落下より早く一つへ戻していく。
「そこじゃねえ」
ガルドが言った。
責めたのではない。自分の剣でも同じことが起きた男が、見たままを伝えただけだった。
アルトは返事をせず、腕の付け根へ視線を戻した。石が終わるところと、黒いものが始まるところ。その二つのあいだにある細い影は、目を凝らすほど見えなくなり、むしろ焦点を少し外したときだけ、水面の傷のように浮かび上がった。
聖剣を返す。
腕が落ちた。
今度は戻らなかった。
五本の指は床へ触れると一度だけ石を掻き、濡れた土のように崩れた。黒い皮膚に見えていたものの下から砂と細い根が現れ、最後に残った水だけが、床の傾きに従ってゆっくり流れていった。
女も前へ崩れた。
レオが木剣を放り出し、床を滑るようにして受け止めた。頭が石へ触れる寸前で腕を差し入れたものの、その腕自体が震えていて、女の重さと自分の恐怖のどちらを支えているのか、本人にも分かっていないようだった。
「聞こえますか」
返事はなかった。
レオはもう一度呼びかけようとして、女の唇が動いたことに気づいた。
「……こぼした」
女の目は、倒れた水差しへ向いていた。石の溝を流れる水は、広間の騒ぎとは関係なく、低い方へ低い方へと進んでいる。
「そんなの、あとでいいです」
「怒られる」
「今は誰も怒りません」
レオの返事は、女へ言ったというより、自分へ言い聞かせたものに近かった。
ダンが隣へ膝をつき、女の首へ指を当てた。脈を確かめるあいだも背後の壁を見ており、女が自分の速さで息を吸い、石がそれに合わせて動かないことを確認すると、短く頷いた。
「戻った」
その言葉が終わる前に、広間の反対側で床が割れた。
老人の右腕が、肩に近いところまで石へ沈んでいる。床から伸びた根は一本を斬れば二本に分かれ、二本を踏めば別の亀裂から三本目が現れた。
ガルドが剣を振るうたび、根は短くなった。しかし、減ってはいなかった。
「どこを止めりゃいい」
アルトは老人だけを見ていた。
「腕の下」
「俺には石しか見えねえ」
「それでいい。動かすな」
ガルドは一度だけアルトを見たが、理由は聞かなかった。根を剣の腹で押さえ、床へ縫いつけるように体重をかけると、アルトはそのすぐ脇へ聖剣を滑らせた。
刃は根にも石にも触れなかった。
それなのに、広間を這っていた黒い筋が一斉に力を失い、老人の腕は床から吐き出されるように石の上へ転がった。老人はしばらく自分の手を見つめ、親指から順に一本ずつ動かした。
「……俺のだ」
誰へ言ったのでもない。
ガルドは老人の手を一度見てから、アルトへ向き直った。
「お前、剣が上手いわけじゃねえな」
アルトは次の病人を探していた。
「何が言いたい」
「見えてるもんが違う」
返事を待たず、ガルドは新しく伸びた根へ向かった。褒めたのでも、畏れたのでもない。戦場で使える事実を一つ見つけ、頭の中の適当な場所へ置いただけだった。
天井から黒い水が落ちてきた。
ダンが病人の足を掴み、柱の陰へ引こうとしたが、顔へ張りついた水から細い糸が何本も伸び、耳と鼻と口を通って天井へ続いていた。身体を動かせば糸も伸び、切れそうになるたび、病人の喉が内側から引かれたように鳴った。
アルトは水を見なかった。
聖剣を振ると、刃は天井の少し手前を通り、何もない空間で止まった。黒い水は支えを失った布のように崩れ、病人とダンの上へまとめて落ちた。
男が激しく咳き込み、ダンも口に入った水を吐いた。
「次は俺のいない方へ落としてくれ」
「避ければいい」
「運んでる人間に言う台詞じゃないな」
ダンは濡れた前髪を払うと、男を抱え直した。声は穏やかだったが、アルトが着地したときの音を一度だけ確かめるように聞き、その後でガルドへ視線を送った。
「足音が変わった」
「誰のだ」
「アルト」
ガルドは根を受けながら、アルトの足元を見た。最初の着地では左右の音がほとんど重なっていたが、今は右足の音だけがわずかに深く、石の中へ沈んでいる。
「分かるのか」
ダンは病人を柱の陰へ下ろした。
「昔、少し見た。戦場の向こうでな」
「勇者をか」
「たぶん」
ダンは曖昧に答え、濡れた外套を病人の肩へ掛けた。
「その時は、あんなもんじゃなかった」
ガルドは一度だけ鼻で息を吐いた。
「十分おかしいけどな」
「だから言ってる。昔のつもりで動けば、先に身体が壊れる」
その会話が聞こえていたかどうか、アルトは振り返らなかった。
壁から二本の腕が伸び、一つはアルトの進路を塞ぎ、もう一つは反対側に寝かされた女の髪を掴んだ。アルトが腕を避けるあいだに黒い蔓が髪の中へ広がり、一本一本を石の亀裂へ引き込んでいく。
ガルドが進路を塞ぐ腕へ剣を叩きつけた。
「ここは止める」
「見えないんじゃなかったのか」
「見えねえから、お前が斬れるまで止めるんだよ」
腕の重みでガルドの靴が石の上を滑った。アルトはその横を抜け、女の髪と蔓の境へ聖剣を入れたが、踏み込みが半歩足りず、刃先は黒い筋の手前を掠めただけだった。
壁が女を引く。
レオが木剣を振った。
乾いた音がして、黒い腕がわずかに横へずれた。それは魔物を傷つけるほどの打撃ではなかったが、女と壁のあいだに、指一本ぶんの空間を作った。
アルトの聖剣がそこを通った。
女の髪が蔓から離れ、身体が床へ倒れる。レオは受け止めようと腕を伸ばしたが、間に合わず、女の肩は石へ軽く触れた。
アルトはレオを見た。
その目は、これまで荷車の中から向けられていたものより明るくも強くもなかった。ただ、焦点だけが合っていた。
「木剣を拾え」
レオは一瞬、意味が分からないような顔をした。
「え」
「次が来る」
それで少年の顔が戻った。
レオは落とした木剣を拾い、握り直した。掌の傷から滲んだ血が柄へ染みたが、拭わなかったのは、手を離すと今の一瞬まで消えてしまいそうだったからかもしれない。
「今の、役に立ちましたか」
アルトはもう次を見ていた。
「少し」
レオの背筋が、ほんの少し伸びた。
ミアは二人の会話を聞いていなかった。
アルトの剣ではなく、呼吸を見ている。聖剣が動くたび、刃は迷わず先へ進むのに、そのあとを追うアルトの肩だけが少し遅れ、息を吸う場所を失ったように上下していた。
「剣は疲れてないね」
レオが振り返った。
「剣は疲れないだろ」
「ううん」
ミアは首を傾げた。
「剣だけ、先に知ってる」
「何を」
「どこへ行くか」
レオは意味を測りかねてアルトを見た。
聖剣は既に次の境を斬っていたが、その直後、アルトの左足が小さく滑った。倒れはしなかったものの、剣先を床へ触れさせ、ほんの一息だけ身体を支えた。
「アルトは、あとから来てる」
ミアはそう言うと、倒れた水差しを拾った。
誰も返事をしなかった。
ノアはアルトの動きを数えていた。
一撃目。
二撃目。
三撃目。
四撃目で、左足が遅れる。
昔も四撃目のあとで左へ流れた。そこで位置を変え、魔物の死角へ入る。次の五撃目までを一つの動きとしていた。
記憶というには輪郭が鮮明すぎた。
ノアの指が胸元へ伸びる。そこにあるはずのないノートを探し、空を掴んだところで、自分が何をしようとしたのかに気づいた。
アルトが左へ動こうとする。
「そっちは駄目」
声が出た。
アルトが一瞬だけノアを見た。
その視線には驚きがあった。どうして知っているのかと問うには短く、聞き流すには長すぎる、一瞬だった。
ノアは病人たちを見た。
「右の二人が先。左はまだ、人の方が早い」
アルトは向きを変えた。
右の病人の胸は壁よりわずかに先に持ち上がり、左の病人は既に床の動きに追い越されかけていた。普通なら左を先にする。しかし右の二人を切り離せば、魔物が床へ逃げる道が狭まり、結果として左にも時間が戻る。
昔なら、そう判断した。
アルトも同じ順序で斬った。
ノアはノートを探した手を下ろした。
書かなかった。
代わりに、次の呼吸を数えた。
アルトが一人を戻すたび、魔物は別の場所へ移った。壁を失えば床へ、床を失えば天井へ、病人の呼吸から切り離されれば窓の外へと伸びていったが、どこへ向かっても以前と同じようには混ざれなかった。
森は、もう一つの風で揺れていなかった。
手前の樫は西へ枝を傾け、その隣の若木は東へしなり、奥の細い木だけは風を受けても一枚の葉も動かさなかった。少し前まで同じ方向へ流れていた景色が、突然それぞれの都合を思い出したように見えた。
黒い蔓は窓の手前で行き先を失い、床へ落ちた。
壁から剥がれた腕も、石へ戻れずに広間の中央を這った。床から押し出された根と、天井から切り離された黒い水も、互いを探すように同じ場所へ寄っていく。
ガルドは剣を構えたまま、それを見ていた。
「集まってるのか」
「違うかもしれない」
ノアが答えた。
「何が違う」
ノアはすぐには言葉を続けなかった。黒いものは一つの場所へ向かっているように見えるが、互いを見つけているのではなく、それ以外の場所から押し出されているだけなのかもしれない。
「戻れなくなってる」
ノアは言った。
広間の中央で、黒いものが大きく揺れた。
腕が根を掴み、根が腕へ巻きつき、その隙間を黒い水が満たしていく。まだ一つの形にはなっていなかったが、どの部分にも共通しているものがあった。
掴むための形だった。
アルトは聖剣を下ろさなかった。
額から落ちた汗が頬を通り、顎の先で一度だけ留まったあと、床へ落ちた。呼吸は整っていなかったが、刃先だけは広間の中央へ向いたまま動かなかった。
レオは、その横顔を見ていた。
勇者を見ているのかもしれないと思った。
けれど、次の瞬間にアルトの膝がわずかに揺れたことで、その考えは消えた。そこにいたのは、今朝まで荷車の中で目を閉じていた男であり、呼べば時々返事をし、呼ばなくても近くにはいた人だった。
だからレオは、勇者とは呼ばなかった。
「アルト」
その声に、アルトの目が動いた。
広間の中央で、黒いものが初めて一つの方向を向いた。




