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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『一つ』 第二節 残るもの

第二節 残るもの


「……またかよ」


誰に向けた言葉でもなかった。


少し離れた場所で、レオがその声を聞いた。少年はアルトを見てから木剣を握り直したが、その場を動かなかった。


後ろで、また一人が倒れた。


今度は病人ではなかった。


さっきまで水を運んでいた女だった。横になっている者の額を拭き、空になった器を集め、泣いている子どもには自分の分を飲ませていた。誰も彼女を、助けられる側には数えていなかった。


女は倒れる前に立ち止まった。手から器が落ち、隣にいた男が名前を呼んだが、振り向かない。


もう一度呼ばれたとき、壁がわずかに膨らみ、床の下を何かが通った。


三度目で、女は顔を上げた。


「……何?」


自分が呼ばれていたことを知らなかったような顔だった。


ノアが走った。女の肩を支えて顔を覗き込み、返事を待たずに周囲を見た。


横になっている者、座り込んでいる者、そのそばでまだ動いている者。


「増えた」


ガルドが振り向いた。


「何人だ」


ノアは答えなかった。


「聞いてんだよ」


「分からない」


ガルドの眉が動いた。


「見りゃ分かるだろ」


「症状が出た人なら」


そこでノアは口を閉じた。


横になっている者は分かる。返事が遅れる者も、同じ間で息をする者も分かる。


では、まだ普通に話している者はどうなのか。自分の足で立ち、誰かを支え、剣を持っている者は、いつから同じ間に入っているのか。


広間が静かになった。


誰も、自分の呼吸を確かめなかった。


「アルト」


ガルドが呼んだ。


返事はなかった。


アルトは聖剣の柄に手を置いていた。


何をすればいいのか、分からないわけではなかった。


分かっているから、動けなかった。


ガルドとダンには斬れない。ノアは病人と砦と魔物が同じ間にあることを見つけたが、そのどこからどこまでが同じなのかは分からない。


アルトなら分かる。


昔から、そうだった。


魔物を見る。


ただ、それだけでいい。


アルトは壁を見た。石だった。床も石であり、横たわる人々は人だった。


一つずつ見るかぎり、何も変わらない。壁は壁で、人は人で、魔物はどこかにいる。


一緒に見なければいい。


アルトは、ずっとそうしてきた。


「アルト」


ガルドがもう一度呼んだ。


病人が息を吸うと、壁が膨らんだ。窓の外で木々が傾き、ほとんど同じ間で床の下を何かが通った。


アルトは目を閉じた。


見なければ、まだ別々だった。


壁は壁で、人は人で、魔物はどこかにいる。


自分が見つけなければ。


父親の右手を思い出した。


大きな手だった。母親の左手はそれより細く、少し冷たかった。


二人ともアルトの名前を呼んだ。


「アルト」


父親が言った。


「アルト」


母親も言った。


助けて、とは言わなかった。


どちらを選べとも言わなかった。


それでもアルトは知っていた。


両方は残らない。


なぜ知っていたのかは、今も分からない。誰かに教えられた覚えはなく、声が聞こえたわけでもなかった。


ただ、分かった。


父親を残せば、母親は残らない。母親を残せば、父親は残らない。


そして、もう一つだけ分からないことがあった。


自分が消えれば、二人は残るのか。


分からないものを選ぶには、アルトは幼すぎた。


右手には父親がいた。


左手には母親がいた。


だから、どちらも離さなかった。


次に覚えているのは、自分の手だった。


二つとも空いていた。


アルトは目を開けた。


広間があった。


人々がいた。


あの日とは何もかも違っていた。それでも、世界の方は同じ問いを覚えているようだった。


人か、魔物か。


斬るか、斬らないか。


どちらかを残せば、もう一方はどうなる。


聖剣の柄を握る手に、力が入った。


昔、最初の魔物を斬った日のことを思い出した。まだ勇者と呼ばれることに慣れていなかった頃だった。


村の外れに、小さな橋があった。


その下に何かがいた。


誰も姿を見た者はいなかった。夜になると家畜が消え、朝には川の水だけが濁っていた。


騎士が三人、川へ入った。


一人が戻らなかった。


残った二人は水の中へ何度も剣を振ったが、何も斬れなかった。


アルトにも最初は見えなかった。


川が流れ、橋があり、その下には石がある。そこに人が立っているだけだった。


誰かが叫んだ。


水の中から腕が伸び、騎士の足を掴んだ。


アルトは見た。


その瞬間、分かった。


水ではない。


石でもない。


ここから、ここまで。


聖剣を振った。


初めて、手応えがあった。


川の中で何かが二つに分かれ、騎士の足が自由になった。濁っていた水は、しばらくするとまた水に戻った。


人々がアルトを見た。


誰かが言った。


「勇者だ」


あのとき、アルトは少しだけ安心した。


今度は選べた。


そのことを、誰にも言わなかった。


それからアルトは何度も境目を作った。人と魔物を分け、村と歪みを分け、生きて帰るものと、そこへ残すものを分けた。


聖剣は一度も迷わなかった。


迷ったのは、いつもアルトだけだった。


「アルト」


現在の声がした。


ダンだった。


急かしてはいなかった。


アルトは顔を上げなかった。


魔王を倒した日も、同じだった。


あの日、アルトはそれまでで最も大きな境目を作った。こちらには人がいて、向こうには魔王がいた。守るものと斬るものが、長い旅の果てにようやく二つに分かれていた。


だから斬った。


魔王は死んだ。


世界は歓喜した。


終わった。


はずだった。


それでも魔物は消えなかった。


遠い山の向こうで、海の底で、人の入らない森の奥で、誰にも見つからない何かがまだ息をしていた。


そのとき初めて、アルトには分からなくなった。


自分は魔物を見つけていたのか。


それとも。


自分が「ここまで」と決めたものを、魔物にしていたのか。


病人が咳をした。


アルトは顔を上げた。


壁を見る。


床を見る。


人を見る。


今度は、一つずつではなかった。


同時に見た。


病人が息を吸うと、壁が膨らんだ。森が傾き、床の下で何かが動く。


その全部を、一度に見る。


広間の音が遠くなった。


見えた。


壁の中に、終わりがあった。


石はどこまでも続いているはずなのに、ある場所で何かが途切れていた。色が違うわけでも、形が変わっているわけでもない。


それでも分かった。


ここだ。


聖剣なら届く。


アルトの指が動いた。


その瞬間、境目の内側に病人の腕が入った。


目を逸らした。


見えていたものが消えた。


もう一度見ると、壁の中に終わりが現れた。今度は老人の肩が、その内側にあった。


また目を逸らす。


消える。


見れば、現れる。


誰かが魔物になったわけではなかった。


アルトが境目を作るたびに、その者をどちら側へ置くのか決めなければならない。


人か、魔物か。


砦か、山か。


どこまで残し、どこから斬るのか。


まただ。


アルトは聖剣から手を離した。


「アルト」


ノアの声だった。


返事をしなかった。


壁が膨らみ、女が息を吸った。


同じ間だった。


アルトの耳に、別の声が戻った。


焚き火の音がしていた。


旅の途中だった。何年前なのかは覚えていない。


「見つければ斬れる」


アルトが言った。


リシアは火に細い枝を入れていた。


「見つけたから?」


「何が」


「魔物」


アルトはリシアを見た。


「そこにいるから見つけるんだろ」


「そうかな」


「他に何がある」


リシアは、枝の先についた火を見ていた。


「そこにいたから見つけたのか、見つけたからそこにいるのか」


「同じだろ」


リシアは少し考えた。


「だったら、、いいね」


「何が」


リシアは答えなかった。


火のついた枝を薪のそばへ戻した。二つの火は近くにあり、しばらくすると、どちらの火がどちらへ移ったのか分からなくなった。


記憶はそこで終わった。


アルトは壁を見た。


見つけたから、そこにいるのか。


あの日、父親を選んでいたら、父親だけが残ったのか。それとも自分が父親を残る側に置き、母親をそうでない側へ置いただけなのか。


母親を選んでいたら。


自分を選んでいたら。


分からない。


今も。


自分がここまでを魔物だと決めれば、聖剣はそこを斬る。


聖剣は迷わない。


自分が間違えても。


アルトは、ずっと怖かったものの形を初めて見たような気がした。


魔物ではなかった。


戦うことでもなかった。


自分が見つけたものを、世界がそのまま受け入れてしまうことだった。


遠い山の向こうも、海の底も、森の奥も、目を閉じれば分かった。だから見なくなった。


それでも聞こえた。


だから眠った。


眠っている間だけは、世界が何を求めているのか考えずに済んだ。


後ろで、誰かが名前を呼ばれた。


返事はなかった。


ノアが走る。


倒れた音はしなかった。隣にいた誰かが、床へ着く前に支えたのだろう。


アルトは振り向かなかった。


「あと、どれくらいだ」


ガルドが聞いた。


ノアは答えなかった。


「ノア」


「分からない」


ガルドは何も言わなかった。


少し前なら、早くしろと言っていたかもしれない。今は剣を握ったまま待っていた。


ダンもいた。


レオも。


ミアも。


誰もアルトに、正しい方を選べとは言わなかった。


そのことが、かえって困った。


世界はいつも答えを言わなかった。


ただ、選んだあとのことだけを残した。


アルトはもう一度、病人を見た。


女の呼吸は、壁とほとんど同じになっていた。息を吸うたびに石が膨らみ、吐くたびに元へ戻る。


次は誰だろう。


その次は。


何もしなければ、誰も選ばなくて済む。


あの日も、そう思ったのかもしれない。


アルトは自分の手を見た。


二つとも空いていた。


選ばなかったのではない。


選ばない方を選んだ。


そんな考えが、今になって初めて浮かんだ。


違うかもしれない。


幼い自分に、そんな選択ができたとは思えなかった。それでも何もしなかったあとにも世界は続き、自分だけが残った。


病人が息を吸った。


壁が膨らむ。


アルトは顔を上げた。


正しい境目など、ないのかもしれない。今見えているものが本当に魔物なのかも分からないし、自分はまた間違えるかもしれない。


それでも、何もしなければ。


今度も、空いた手だけが残る。


アルトは見た。


壁と床と病人を、もう別々には見なかった。森も山も、そのすべてが同じ間で動いている場所へ目を向けると、いくつものものが重なり、互いの終わりを失いかけていた。


その中で、病人の指が動いた。


壁も動いた。


アルトは息を止めた。


もう一度見る。


病人が息を吸い、壁が膨らむ。ほとんど同時だったが、ほんの少しだけ指の方が先だった。


今度は老人の瞼が動いた。


少し遅れて、床の砂が持ち上がった。


同じではない。


まだ。


ノアの声が戻った。


触ってない。


まだ。


アルトは病人を見た。


魔物から外したのではない。


病人たちがまだ自分でいる、そのわずかなずれを見つけた。


呼ばれてから振り向くまでには間があり、息を吸おうとして少し止まることもある。眠っている者の指が誰かの名前に反応しても、それは壁より少し早かったり、少し遅かったりした。


世界と同じ速さでは動けない。


アルトは、そういうものを何度も見てきた。


怖いのに前へ出る者がいた。逃げたいのに残る者がいて、もう歩けないと言った翌朝に、黙って靴を履く者もいた。


人は同じ間では動かなかった。


アルト自身もそうだった。


世界が救えと言ったときに、旅を終わらせたくないと思った。魔王を倒したあとに喜べず、何もしたくないのに、レオが倒れれば身体が動いた。


同じではない。


まだ。


アルトは壁と床を見て、その奥へ目を凝らした。人でも砦でも森でもない何かが、それらのわずかなずれを奪い、同じ速さへ引いている。


それなら。


アルトの手が聖剣の柄へ戻った。


今度は離さなかった。


金属が鞘を擦る音がした。


長く使われていなかった音だった。


ガルドが顔を上げ、ダンもそちらを見た。レオは木剣を握ったまま、その場を動かなかった。


聖剣が抜かれた。


光は出なかったし、風も起きなかった。アルトはただ、壁の中と床の下、人の呼吸のすぐそばを見ていた。


今までどこまでも続いていたものに、少しずつ終わりができていく。


ノアだけが、アルトではなく壁を見ていた。その目が大きくなる。


「……形が」


ガルドが聞いた。


「何だ」


ノアは答えなかった。


壁から腕が出た。


さっきまでと同じように、肩があり、肘があり、五本の指があった。


それでも今度は違った。


腕は、もう壁のどこまでも続いてはいなかった。


終わる場所があった。


アルトは聖剣を構えた。


間違っているかもしれないという考えは、消えなかった。


消えないままでよかった。


正しいから斬るのではなく、間違えないから選ぶのでもない。ただ、何もしなかったあとに残るものを、アルトはもう知っていた。


アルトは、低い声で言った。


「ここまでが、魔物だ」


腕の先に、影が落ちた。

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