『一つ』第一節 同じ間
第一節 同じ間
ガルドの剣が、腕を斬った。
骨を断った感触はなかったし、肉を裂いた手応えもなかった。ただ硬いものへ刃を入れ、その奥にあるもう少し硬いものまで押し切った感触だけが、両腕に残った。
腕には確かに切れ目が入っていた。それでも落ちなかった。
「ダン」
ガルドは剣を引かなかった。
名前を呼ばれた男は理由を聞かず、反対側へ回り込んだ。腕が壁へ戻るより先に踏み込み、ガルドの刃とほとんど同じ場所へ剣を入れる。
二本の刃が、左右から一つのものを断った。
一瞬だけ、向こう側が見えた。
そこには骨も肉もなく、ただ暗い奥行きだけがあった。その先に何があるのかを考えるより早く切断面は閉じ、二人の剣だけが押し戻された。
腕は、まだそこにあった。
「……残ったね」
ダンが言った。
「見りゃ分かる」
「そうじゃない」
ダンは剣を抜いた。刃の先から、細かな石の粉が落ちた。
「斬った方が残った」
ガルドが眉を寄せた。
その間に腕が縮み始めた。指が石へ沈み、手首が消え、肘までが壁の中へ戻っていく。
戻る、という言葉が正しいのか、アルトには分からなかった。
腕が壁の中へ入ったようにも見えたし、腕だったものを人間の目がもう一度壁と呼び直しただけのようにも見えた。どちらにせよ、そこにはもう斬るべきものがなかった。
床が持ち上がった。
「レオ!」
ダンの声より先に、少年はミアの前へ出ていた。
両手で握った木剣に、床から伸びた細いものが横からぶつかった。乾いた音とともにレオの身体が半歩流れたが、木剣は折れなかった。
ただ、届いてもいなかった。
「レオ」
ミアが言った。
「平気」
「手」
レオは右の掌を見た。いつもの擦り傷の上に、新しい赤い線が一本できている。
「ちょっと痛い」
「そっか」
ミアは頷き、レオは木剣を持ち直した。それ以上のことは、二人とも言わなかった。
床から伸びたものは、もう消えていた。
代わりに天井が開いた。
口のように見えた。歯に似た石が並び、その奥で暗いものが動いたが、ダンが剣を向けるより早く閉じてしまう。あとには、何年も前からそこにあった天井だけが残った。
「どこだ」
ガルドが言った。
返事はない。
「次は、どこから来る」
壁も床も天井も、今は動いていなかった。そのことが安全を意味しないと、もう全員が知っている。
ガルドは人々を見た。
広間の中央に集めたのは、壁から離すためだった。しかし床からも現れる。壁際へ寄せることはできず、出口へ向かわせるには、この広間そのものを横切らせなければならない。
「下が——」
言葉が止まった。
ダンが見た。
「何」
ガルドは答えず、もう一度広間を見回した。
「……どこに立たせりゃいい」
ダンも広間を見たが、すぐには答えなかった。
「おい」
「探してる」
「早くしろ」
「だから探してる」
ガルドが舌打ちした。
昔からそうだったのかもしれない、とアルトは思った。ガルドは先に剣を抜き、ダンはその剣が届かなかった場所を見る。どちらが正しいということではなく、その二人が同じ場所にいたから、今まで死なずに済んだのだろう。
だが今は、ダンにも見るべき場所がなかった。
何かが落ちた。
剣ではなかった。
人々の間を小さな器が転がり、二度ほど向きを変えてから横倒しになった。
器を持っていた男が座り込んでいた。
隣の女が名前を呼ぶと、男は少し遅れて顔を上げた。「大丈夫?」と聞かれ、また少し遅れて頷く。
ノアが動いた。
男の前に膝をついて顔を覗き込み、手首に触れようとして、途中でやめた。
「ノア?」
レオが呼んだ。
ノアは答えなかった。
男の隣にいる女を見て、その奥に横たわる老人へ目を移し、さらにもう一人を見た。病人たちは座るか横になるかしていて、眠っているように見える者もいた。
アルトも前から気づいていた。
皆、同じように息をしている。
ゆっくり吸い、吐き、そのあとに少し長い間がある。最初は同じ病気だからだと思っていたし、同じ場所で同じものに触れたのなら、呼吸が似ることもあるのかもしれなかった。
ノアも、そう思っていたはずだった。
その顔が上がった。
病人ではなく、誰もいない壁を見ている。
石が一つ、わずかに前へ出た。
そして戻った。
ノアは病人を見た。
男が息を吸う。
壁が膨らむ。
男が吐く。
壁が戻る。
ノアの手が止まった。
「……もう一回」
ガルドが振り向いた。
「何だ」
「斬って」
「は?」
ノアは壁を見たままだった。
「さっきのところ。もう一回斬って」
「遊んでんのか」
「ガルド」
ダンが言った。
ガルドはダンを見た。
「やって」
ガルドは何も言わず、剣を構え直した。
壁から、また腕が出た。
今度は人の腕によく似ていた。肩があり、肘があり、五本の指がある。形がはっきりしていることの方が、かえって気味が悪かった。
ガルドが踏み込み、剣を入れた。
ノアは見なかった。
腕ではなく、病人を見ていた。
刃が深く入った瞬間、横になっていた女の肩が小さく揺れた。同時に壁が鳴り、天井から砂が落ち、広間の奥で誰かが息を吸った。
「もう一回」
ノアが言った。
「何が見えた」
ダンが聞いた。
「まだ」
ガルドが剣を引くと、腕は壁へ戻った。少しして床が盛り上がる。
「今」
ガルドが斬った。
床が震え、病人の指が動いた。天井から落ちた水滴が石を打ち、それから少し遅れて病人が息を吐いた。
壁が戻った。
ノアは立ち上がった。
誰も何も言わなかった。
その間にも、病人たちは呼吸を続けている。息を吸うたびに壁がわずかに膨らみ、吐くと床の砂が落ちた。次に腕が現れるまでの間さえ、同じ長さだった。
ノアは病人から壁へ、壁から床へと目を移した。最後に、まだ何の形にもなっていない場所を見た。
「呼吸じゃなかった」
ダンが眉を寄せた。
「何が」
ノアはすぐには答えなかった。
言葉を探しているようには見えなかった。むしろ、見えてしまったものをどこまで言葉にすれば、見たままの形で渡せるのかを考えているようだった。
「この人たちが、同じ呼吸をしてたんじゃない」
ガルドは剣を下げなかった。
「じゃあ何だ」
病人の一人が息を吸った。
壁が膨らみ、床の下で何かが動いた。
ノアはそれを見ていた。
「同じものを、私たちが呼吸だと思ってた」
誰も動かなかった。
ガルドだけが、少し遅れて口を開いた。
「分かるように言え」
ノアは病人を見た。
「この人たちに起きると、呼吸に見える」
次に壁を見た。
「ここで起きると、壁が動いたように見える。床なら揺れになるし、あれなら——」
魔物が消えた場所へ目を向ける。
「私たちは、魔物が動いたと思う」
「同じものだってのか」
「たぶん」
ガルドの顔が険しくなった。
「またそれか」
「分からないから」
ノアは言った。
「何が同じなのかじゃない。どこまで同じなのかが、分からない」
床が動いた。
壁も動いた。
病人が息をした。
同じ間だった。
ダンが窓の方を見た。
細い窓の向こうには森があった。風はなかったはずなのに、木々が同じ方向へ一度だけ傾いた。
その直後、広間の床がわずかに動いた。
病人の身体が揺れた。
壁から腕が伸びた。
ノアは何も言わなかった。
もう言う必要がなかった。
ダンが窓へ近づいた。
「おい」
ガルドが呼んだ。
ダンは外を見ていた。
森の向こうに斜面があり、その先には山がある。夕方の光が薄くなり始め、山の輪郭だけがまだ黒く残っていた。
「ダン」
「これ」
ダンは窓から目を離さなかった。
「どこまで?」
ガルドが眉を寄せる。
「何がだ」
ダンは床を見て、次に壁を見た。それからもう一度、外へ目を戻した。
「砦」
意味を理解できなかったのではない。
たぶん、理解したくなかった。
「砦って、どこまで?」
ガルドが舌打ちした。
「石壁までだろ」
「その石、どこから持ってきた」
「知らねえよ」
「床の下は?」
「山だ」
「じゃあ、どこから山になる?」
ガルドは黙った。
ダンも、それ以上は聞かなかった。
床が動いた。
山の木々が傾いた。
病人が息をした。
壁から腕が出た。
それぞれ違うものを見ているはずなのに、その間だけは同じだった。
誰かが、小さく言った。
「砦が……魔物なのか」
ダンが首を振った。
「逆かも」
「何が」
ダンは答えなかった。
床の下で、大きなものが動いた。
石と石が擦れる音が聞こえたが、それが広間の奥から来たのか、足元から来たのか、壁の向こうから来たのか分からない。耳を澄ませるほど、音のある場所だけが遠ざかっていくようだった。
ダンが低く言った。
「俺たちが、中にいる」
そのとき、一人の女が壁へ倒れかけた。
ノアが走り、身体を抱き止める。女の指先は壁のすぐ手前で止まり、石には触れなかった。
それなのに、指が曲がると、壁の石もわずかに沈んだ。
ノアの顔から色が消えた。
「触ってない」
ダンが聞いた。
「何が」
ノアは女の手を見た。
それから壁を見る。
「まだ」
その一言で十分だった。
ガルドが人々を見た。
横になっている者だけではない。立っている者も、泣いている子どもも、その子を抱く母親もいる。ダンがいて、木剣を握るレオがいて、その後ろにはミアがいた。
ノアもいる。
自分もいる。
病人が最初だった。
それだけなのかもしれない。
最初に眠くなり、最初に返事が遅れ、最初に呼吸が揃った。では、その次は誰なのか。
誰も自分の呼吸を確かめなかった。
確かめれば、何かが分かってしまうような気がした。
アルトは壁を見ていた。
砦と魔物、人と砦。それぞれ別のものだったはずなのに、どこから別だったのかが分からなくなる。
ノアの声が、遠くで聞こえた。
「アルト?」
父親の右手。
母親の左手。
どちらも、まだ温かかった。
だから、まだ間に合うと思っていた。
「アルト」
今度はガルドの声だった。
壁から腕が出ている。
違う。
壁からではない。
壁が、腕になっている。
アルトの手が聖剣の柄に触れた。
抜かなかった。
記憶の中で、父親が自分の名前を呼んだ。少し離れたところから、母親も呼んだ。
同じ名前だった。
意味は違った。
どちらも助からない。
幼いアルトは、それを知っていた。誰にも教えられていないし、なぜ分かるのかも知らなかったが、それでも、もう両方は残らないのだと分かっていた。
右手には父親がいた。
左手には母親がいた。
どちらも離したくなかった。
だから、どちらも選ばなかった。
その次に何が起きたのか、アルトは思い出せなかった。
思い出せないのに、壁が動き、病人が息をし、床の下で何かが鳴る、そのすべてを知っているような気がした。
知っている。
これは、初めてではない。
後ろで、また一人が倒れた。
アルトは振り向いた。
人々がいる。
魔物がいる。
聖剣がある。
そして世界は、また自分に何かを選ばせようとしている。
アルトは聖剣の柄を握ったまま、動かなかった。
「……またかよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
少し離れた場所で、レオがその声を聞いた。
少年はアルトを見た。
それから自分の木剣を、両手で握り直した。




