『間』第五節 いっしょ
第五節 いっしょ
アルトは、その音がどこから聞こえるのかを探さなかった。
今度は、音と音の間を見た。
右の壁で石を擦る音がし、指が浮かび上がった。ガルドがそちらへ向かったが、剣が届くより先に、その指の下半分は石へ戻り始めている。
そのとき、床が動いた。
ダンが振り向く。壁の指はまだ残っているのに、床はもう盛り上がっていた。
そして床が平らになる前に、天井近くで口が開いた。
アルトは、壁から床へ、床から天井へと視線を移した。口が閉じる前には、反対側の壁が膨らみ始めている。
今までも、同じことは起きていたのかもしれない。ただ、壁に何かが出れば壁を見て、床が動けば床を見た。天井で音がすれば顔を上げ、そのたびに別のものが現れたと思っていた。
けれど、一つが終わってから次が始まっているわけではなかった。
少しだけ、重なっている。
いつから川になったんだろう。
遠い昔の声だけが戻り、すぐに消えた。
反対側の壁が平らになる。
今度は床が動く。
アルトはそちらを見た。まだ何もない。
ダンが、その視線を追った。
床が膨らむより少し前に、ダンは走り出していた。剣が下り、盛り上がりかけた床が崩れると、石の欠片が足元を跳ねた。
ガルドが振り向く。
「何が分かった」
「分かってない」
「何故先に動いた」
ダンはアルトを見た。
「見ていたから」
「何を」
「さあ」
「お前な」
反対側の壁が動き、ダンはもうそちらへ向かっていた。ガルドは一瞬だけアルトを見たあと、ダンとは反対の方向へ走る。
壁から腕が出た。
ダンが斬る。
その腕が消える前に床が盛り上がり、今度はガルドの剣が下りた。床が戻るより早く天井で口が開くと、ダンはもうそちらへ向かっている。
二人は、同じ場所を追わなくなっていた。
ダンが動けば、ガルドは反対側を見る。ガルドが剣を振れば、ダンは次に動くものを待った。
昔からそうしていたようにも見えたし、今日初めてそうしているようにも見えた。
それでも、魔物は減らなかった。
右の壁から床へ、床から天井へ、天井から反対側の壁へと、形は少しずつ重なりながら移っていく。
もう一度。
今度は床から始まった。床から天井へ、天井から壁へと、さっきとは違う順番で広間を動いていく。
同じではない。
それでも、前の形が消えるより少し早く次の形が始まることだけは変わらなかった。どこまでが前で、どこからが次なのか、その境目だけが見つからない。
床で、小さな音がした。
木の実だった。
ミアが持っていた。いつ拾ったのかは分からないし、ずっと握っていたのかもしれなかった。
木の実は床の凹みに沿ってゆっくり転がり、少し進んだところで止まった。
ミアが目で追う。
木の実の下で、床が持ち上がった。
木の実も一緒に上がる。
「あ」
ミアが言った。
ダンの娘がミアを見る。
「どうしたの?」
ミアは答えなかった。
床の膨らみが消えると、木の実は落ちて、また転がった。少し離れたところで、別の床が持ち上がる。
「あ」
「なに?」
「きのみ」
「きのみ?」
ミアは首を振った。
「いっしょ」
「なにが?」
ミアは床を見る。
「さっきの」
それだけだった。
意味は分からない。
ただ、転がったものを見ていただけだった。
アルトはミアを見る。
いっしょ。
その言葉だけが残った。
ミアはもうアルトを見ていなかった。床の木の実へ手を伸ばそうとして、老婆に服を掴まれる。
「だめ」
「きのみ」
「あとで」
「いま」
「あとで」
ミアは口を尖らせた。それでも諦めきれないらしく、老婆の手と木の実を交互に見ている。
アルトも木の実を見た。
小さな木の実だった。どこかの木になっていて、今は床の上にある。
その向こうで、レオが木剣を握っていた。
父から受け取ったそれを、レオはまだ離していない。
アルトは壁を見る。
古い石だった。
そこから腕が伸び、斬られると、また石に戻った。床は背中のように盛り上がり、それもやがて消えて、何の変哲もない床になる。
アルトは、いつの間にか木の実から木剣へ、木剣から壁へと視線を移していた。
何を探しているのかは、自分でも分からなかった。
雨は川になった。
木の実は、木から落ちた。
レオの持つ剣も、いつかは木だった。
そして壁から現れたものを、自分たちは魔物と呼んでいる。
けれど、いつから。
どこから。
世界って、どこまでがひとつなんだろうね。
リシアの声がした。
アルトは川辺には戻らなかった。広間にはダンとガルドがいて、レオは木剣を握り、ミアはまだ木の実を見ている。
壁から腕が伸びた。
腕は斬られ、石へ戻った。
知らん。
昔なら、そう答えて終わっていた。
知らないことは、知らないままでよかった。世界は向こうにあり、自分はその中を歩けばよかった。
けれど今は、目の前でダンの剣が空を切り、ガルドの刃が石を削っている。何度斬っても減らず、どこを斬っても終わらない。
知らなくても、続いていく。
アルトは壁を見た。
どこにいる。
ずっと、そう考えていた。魔物がどこにいるのか、どこを斬ればいいのか、どこまで行けば届くのか。
けれど壁は魔物になり、魔物はまた壁へ戻る。
アルトは木の実を見た。
次に、レオの木剣を見た。
最後に、壁を見る。
どこまでが魔物なんだ。
ダンが剣を構えたまま、アルトを見た。
「何か見えた?」
「分からない」
「さっきから、そればかりだな」
アルトはダンを見る。責めているようには聞こえなかった。
ダンは壁へ目を戻した。
「でも、見てるものは変わった」
少し離れた床が動く。
ダンはそちらへ走った。
アルトはその場に残った。何が変わったのか、自分では分からなかったが、さっきまでのように魔物だけを探してはいなかった。
レオは木剣を握り、ミアは木の実を見ている。ダンが走るとガルドはその反対側へ向かい、ノアは病人たちの前から動かなかった。
壁と床と天井では、形の違うものが少しずつ重なりながら、現れては消えている。
どれも離れていた。
けれど、ミアは言った。
いっしょ。
何と何が。
アルトには、まだ分からなかった。
どこかで、水の流れる音がしたような気がした。
この広間に、水はない。
アルトは壁から背中を離した。
誰も気づかなかった。ダンも、ガルドも、レオも、ミアも、それぞれ別のものを見ている。
それでよかった。
アルトは一歩だけ前へ出た。
床の上を、木の実がゆっくり転がっていた。




