『間』第四節 終わったあと
第四節 終わったあと
「じゃあ、今はどこにいる」
誰も答えなかった。
壁には腕があり、床には背中が浮かび、天井近くでは声のない口が開いている。どれも見えているのに、どれを指して魔物と呼べばいいのかは分からなかった。
壁の腕が動いた。
ダンが剣を構える。
ほとんど同時に、床の背中が大きく反った。
「ガルド!」
「見えてる!」
ガルドが踏み込み、床へ剣を振り下ろす。
その瞬間、天井の口が開いた。
声はなかった。
けれど、壁の腕が伸び、床の背中が反り、天井の口が開く一連の動きは、離れた三つのものが偶然同時に動いたようには見えなかった。
一つの身体が、息をした。
アルトには、そう見えた。
ダンの剣が腕を断ち、ガルドの刃が背中へ食い込む。二つの形は崩れたが、天井の口だけはしばらく開いたままで、やがて何事もなかったように石へ戻った。
ガルドが天井を見上げる。
「……今の、見たか」
「ああ」
ダンは短く答えた。
それ以上、二人は何も言わなかった。何を見たのか、言葉にしたところで確かめる方法がないことを知っているようだった。
また、石を擦る音がする。
今度は、どこからとも分からなかった。
アルトは広間を見た。
どこにいる。
自分で口にした言葉が、まだ残っていた。
昔は、そんなことを考える必要がなかった。
村に魔物が出れば村へ行き、森にいると聞けば森へ入った。山にいるなら登り、城にいるなら門を探した。
そこへ行けば、魔物がいた。
向こうに魔物がいて、こちらに自分がいる。その間には道があり、歩けば少しずつ近づいた。
剣を抜く。
戦う。
終わる。
一つ終われば次の場所があり、そこも終われば、その次へ向かった。苦しくなかったわけでも、怖くなかったわけでもないが、どちらへ歩けばいいのかだけは分かっていた。
それがなくなったのは、魔王を倒した日だった。
あの日、皆が終わったと思った。
アルトも、そう思った。
城の外で鐘が鳴っていた。誰が最初に鳴らしたのかは知らなかったが、一つ鳴ると別の場所でも鳴り、遠くの町でも同じことが起きたらしい。
知らない人間がアルトの手を握った。泣いている者がいて、笑っている者もいた。何度も頭を下げる者もいれば、大きな声で何かを言う者もいたが、よく聞き取れなかったし、聞き返す必要もなかった。
皆、同じ顔をしていた。
終わったのだ。
アルトも、本当にそう思った。
翌朝、太陽が昇った。
町ではパンが焼かれ、店の前には水が撒かれていた。子どもが転んで泣き、隣の家からは何かを巡って言い争う声が聞こえた。
世界は救われたからといって、静かにはならなかった。
そのことを、アルトは少し意外に思ったが、悪くなかった。誰かがパンを焼き、誰かが道を掃き、どうでもいいことで喧嘩をする。そういうものを取り戻すために歩いてきたのだと思えば、世界が昨日と同じように騒がしいことにも意味があるような気がした。
次の日も朝が来た。
その次の日も来た。
アルトは起きて、食べた。何もしない日もあり、誰も次の場所を教えなかった。
最初は少し不思議だった。
やがて、楽になった。
ある夜、アルトは目を覚ました。
何かがあった気がした。
起き上がって窓を開けたが、外には夜の道と閉じた店があり、どこかの家から人の咳が聞こえただけだった。しばらく外を見たあと、アルトは窓を閉めた。
翌朝には、ほとんど忘れていた。
二度目は、眠ったままだった。
朝になってから、何かが通り過ぎたような感じだけが残っていた。夢を見た気もしたが、どんな夢だったのかは思い出せなかった。
三度目は、少し長く残った。
遠かった。
山の向こうなのか、海の向こうなのか、それさえ分からなかった。ただ、昨日まで繋がっていた何かが、今日はうまく繋がっていない。
そんな感じがした。
気のせいかもしれなかった。
だから、何もしなかった。
それからも、ときどきあった。
最初は忘れた。
次は、忘れるのに少し時間がかかった。
その次は、酒を飲んだ。
何が起きているのか、アルトには分からなかった。場所も分からず、何をすればいいのかも分からない。
魔物を感じることもあった。
けれど、それだけではなかった。
遠い場所で何かが途切れ、昨日まで流れていたものが、今日はうまく流れない。離れていたものが触れ、繋がっていたものが離れる。
それが人なのか、森なのか、川なのかさえ分からないこともあった。
ただ、世界のどこかで何かがうまくいっていない。
そのことだけが残った。
昔なら、向かう場所があった。
そこへ行き、剣を抜けばよかった。
けれど今度は、どこへ行けばいいのか分からない。剣は持っていたし、振ることもできたが、歩く方角がなかった。
アルトは少しずつ、世界との繋がりを遠ざけた。遠ざければ静かになったが、完全に消えることはなかった。
剣を置けば終わると思っていた。
聞こえるものまで置いていくことは、できなかった。
石を擦る音がした。
アルトは広間に戻った。
ダンが壁へ走り、ガルドは反対側の床へ向かっている。壁から腕が伸び、床が盛り上がり、天井の口が開いた。
離れた場所で起きているのに、やはり一つのものが動いているように見えた。
ダンが腕を斬る。
ガルドが背中を断つ。
口は残る。
次の瞬間には、それも消えた。
また別の壁が動く。
終わらない。
その言葉が浮かんだとき、アルトの背中に冷たいものが触れた。
石壁だった。
そこまで下がった覚えはなかった。
どこにあるのか分からない。何をすれば終わるのかも分からず、剣を持っても、どちらへ歩けばいいのか分からない。
昔と同じだった。
アルトは右手を握った。
空だった。
少し離れた場所で、ノアがその手を見ていた。
声はかけなかった。
ただ自分の右手を見下ろし、人差し指を一度だけ曲げた。何かを数えるときのようにも、確かめるときのようにも見えた。
アルトは見ていなかった。
壁が膨らむ。
床が動く。
石を擦る音がする。
魔王を倒した。
世界は救われた。
あの日の喜びが嘘だったとは思わない。終わったのだ。少なくとも、一度は。
それでも世界は翌日を迎え、その次の日も続いた。続けば何かが起き、何かが途切れ、何かが繋がる。昨日までうまく流れていたものが、今日は流れなくなる。
アルトはそれを感じた。
どこにあるのかも分からないまま。
何をすればいいのかも分からないまま。
終わったはずだった。
ダンが壁へ走った。
剣を振るが、刃が届く前に膨らみは消れ、離れた床がゆっくりと持ち上がる。
ダンはそちらを見た。
「何か見えてるんだろ」
アルトは答えなかった。
「見えてない」
「そうか」
ダンは床へ向かった。
それ以上は聞かなかった。
剣が下りる。
床の膨らみが消え、少し離れた壁が動き始める。
ダンはそちらへ目を向けた。
「じゃあ、何が見えてない」
アルトは顔を上げた。
ダンはこちらを見ていなかった。
ガルドが別の壁へ走っている。レオは木剣を握り、ミアは老婆とダンの娘のそばにいた。ノアは病人たちの前にいる。
皆、同じ広間にいた。
アルトは、もう一度その間を見た。
壁と床の間。
腕と口の間。
ダンとガルドの間。
離れているものの間には、何もない。
今まで、そう思っていた。
石を擦る音がした。
アルトは、その音がどこから聞こえるのかを探さなかった。
今度は、音と音の間を見た。




