『間』第三節 昔は
第三節 昔は
アルトが見ている前で、壁の膨らみはゆっくりと形を変えた。
最初は顔のように見えた。額があり、鼻らしき隆起が生まれたものの、目ができる前にそれらは崩れ、今度は肩のような形になる。
ガルドが走ったが、剣の届く少し前で膨らみは消えた。
「ちっ」
反対側の床が盛り上がり、今度はダンが向かう。だが、それも剣が届く前に平らな石へ戻り、代わりに天井近くの壁が動いた。
「止まれ、馬鹿!」
ガルドが怒鳴った。
「止まるわけねえだろ!」
ダンが反対側へ走りながら返す。
「言ってみただけだ!」
「なら黙って走れ!」
「走ってる!」
ガルドは返事の代わりに剣を振った。
刃が石壁を打ち、硬い音が広間に響く。ほんの少し前までそこに浮かんでいたものは、消えたのか、別の場所へ移ったのか、それとも最初からそこにはいなかったのか、石を打つ音だけを残していなくなっていた。
さっきまでは、まだ斬れた。
腕が出れば腕を斬り、口が現れれば口を斬った。斬ったところで減ってはいなかったが、少なくとも刃の届く時間はあった。
今は、その時間さえ短くなっている。
壁が膨らめば二人は走り、床が動けば振り返る。けれど剣が届く頃には何もなく、次の場所で、まだ名前のない形が生まれかけていた。
二人は、何もない場所を追いかけていた。
「アルト!」
ダンが呼んだ。
アルトは顔を上げる。
ダンは壁から目を離さないまま、剣を構えていた。
「昔も、こんなだったのか」
「違う」
答えはすぐに出た。考える必要もなかった。
「何が違う」
今度は、答えが出なかった。
何が違うのだろう。
同じ魔物だった。少なくとも、アルトにはそう感じられた。ゴブリンや飢狼とは違い、生きるために食べ、眠り、子を残すものではない。
昔、旅の途中で出会ったものもそうだった。
人に似たものもいれば、獣に似たものもいた。角を持つもの、腕が四本あるもの、顔のないものもいたが、どれも魔獣ではなかった。
腹を空かせているようには見えず、縄張りを守っているわけでもない。逃げるものもいたが、生き延びたいから逃げていたのかどうか、アルトには最後まで分からなかった。
それでも、昔の魔物はそこにいた。
アルトたちはこちらにいて、魔物は向こうにいた。その間には距離があり、近づくには歩かなければならず、剣を振るには、もっと近くまで行く必要があった。
斬れば傷がついた。深く斬れば倒れ、一体倒せば一体減った。
「昔は、いた」
アルトは言った。
ダンが振り向く。
「今もいるだろ」
「そうじゃない」
「何がだよ」
「そこにいたんだ」
ダンの眉が寄った。
「だから、今も――」
「違う」
思ったより強い声が出た。
ダンが黙る。
アルトは壁を見た。少し前まで指があり、別の壁には腕があった。床には背中が浮かび、どれも斬ることができた。
しかし、それは魔物だったのだろうか。
魔物の一部だったのかもしれないし、魔物が一時的にその形を借りただけなのかもしれない。どちらにしても、アルトにはその先が見えなかった。
「昔は」
アルトは言葉を探した。
「あそこにいるって、分かった」
壁が膨らみ、ダンが向かう。けれど途中でそれは消え、反対側に声のない口が開いた。
ガルドが走った。
それも消えた。
足を止めたガルドが、壁を見たまま聞く。
「昔のは、どこを斬った」
「何?」
「どこを斬れば死んだ」
アルトは少し考えた。
「ものによった」
「だから、どこだ」
「首とか、頭とか。心臓のある奴もいた」
ガルドは目の前の壁を見た。
「こいつは?」
アルトは答えられなかった。
腕は斬った。指も、口も、背中も斬ったが、どれも消えただけで、まだ何かが残っている。
ガルドは剣を下ろさず、壁から床へ視線を移した。
「死ぬ場所がねえ」
広間のどこかで、石を擦る音がした。
アルトは音の出どころを探した。右の壁にも、床にも、天井にも、変わったところはない。
それでも、音は続いていた。
アルトは古い石壁を見る。
その石が盛り上がれば腕になり、斬ればまた石に戻る。壁だったものが魔物になるのか、魔物が壁の形を借りているのか、その境目はどこにも見つからなかった。
石を擦る音の向こうで、別の音がした。
水の音だった。
広間には川などない。それでもアルトは、しばらくその音を聞いていた。
遠い昔のことだった。
雨がやんだあと、川沿いの道を歩いていた。
道はぬかるみ、歩くたび靴の裏に泥がついた。リシアは少し前を歩いていたが、いつの間にか立ち止まり、川を見ていた。
「雨、やんだな」
「うん」
「何見てる」
「水」
「見れば分かる」
リシアは何も言わなかった。
川はいつもより水が多く、濁った流れが枝や葉を運んでいた。大きな枝は途中で石に引っかかり、小さな葉だけが先へ流れていく。
アルトはしばらく待った。
「行かないのか」
「ねえ」
「何だ」
「これ、雨なのかな」
アルトは川を見た。
「川だろ」
「でも、さっきまで雨だったでしょう」
「だから?」
リシアは少し考えた。
「いつから川になったんだろう」
「知らん」
「うん」
「そんなこと考えてたのか」
「ちょっとだけ」
リシアはまた水を見る。
アルトもつられて見たが、見たところで川は川だった。
「世界って」
リシアが言った。
「どこまでがひとつなんだろうね」
アルトは彼女を見た。
「知らん」
「うん」
「お前も知らないのか」
「知らないよ」
リシアは少し笑った。
「だから見てたの」
川は流れていた。
雨はもう降っていなかった。
剣が石を打つ音がした。
アルトは広間に戻った。
ガルドが壁の前に立っていた。剣の先が石を削り、白い傷を残している。
「くそ」
魔物は、またいなくなっていた。
なぜ今、あの川を思い出したのかは分からなかった。リシアが何を言いたかったのかも、あの頃のアルトには分からなかったし、今なら分かるというわけでもない。
ただ、言葉だけが残っていた。
どこまでがひとつなのか。
壁が動いた。
ほとんど同時に床が膨らみ、天井近くでは声のない口が開いた。離れた三つの場所で起きたことなのに、どこか一つのものが動いたようにも見えた。
ダンは壁を見て、ガルドは床を見た。
二人とも、一瞬だけ動けなかった。
「で」
ダンが言った。
「どう違う」
アルトは答えず、壁の腕から床の背中へ、そこから天井の口へと視線を移した。
昔は違った。
魔物がいて、自分がいた。その間には距離があり、近づくことも、離れることもできた。
「昔は、向こうにいた」
「何が」
「魔物が」
ダンは壁の腕を見た。
「今も向こうだろ」
アルトは首を振った。
壁に腕があり、床には背中が浮かび、天井では口が開いている。確かにどれも向こうにあるのに、それらを一つの魔物として数えようとすると、どこにも本体がなかった。
アルトは三つの場所を見た。
「じゃあ、今はどこにいる」




