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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『間』第二節 知っていた

第二節 知っていた


 反対側の壁で、指がゆっくりと形を持っていく。


 一本、二本。さっきガルドが斬ったものと同じように見えたが、本当に同じものなのかは、もう誰にも分からなかった。


 ガルドが走り、その途中で床が盛り上がった。


「ダン!」


「見えてる!」


 ダンの剣が背中を断ち、ほとんど同時にガルドが壁の指を斬る。二つとも消えたが、今度は天井近くに口が現れた。


 ガルドが顔を上げる。


 その足元で、石床から腕が伸びた。


「くそっ」


 剣を返すが、間に合わない。腕はガルドの足首へ向かって伸びていた。


 硬い音がした。


 レオの木剣だった。


 横から振られた木剣が腕を打ち、乾いた音が広間に響く。両手には確かな手応えがあり、腕も打たれた方へわずかに曲がった。


 それだけだった。


 腕は消えなかった。


 レオの動きが止まる。


 前は違った。同じ木剣で、握っているのも同じレオだった。父から受け取り、毎日振ってきた、どこにでもある木の剣が、あのときは確かに魔物へ届いた。


 レオはもう一度振った。


「下がれ!」


 ダンの声と木剣の音が重なる。


 今度も当たったが、腕は何もなかったように動き、レオの足へ伸びた。横からガルドの剣が入り、その手首を断つ。


 ダンがレオの肩を掴み、後ろへ引いた。


「何してる!」


「でも」


「下がれ!」


「さっきは」


 レオは木剣を見た。


「きいた」


 誰も答えなかった。


 嘘ではない。そこにいた全員が、さっきこの木剣が魔物へ届くところを見ていた。


 今は届かない。


 木剣は同じで、握っているレオも同じに見える。それなら何が違うのか、アルトにも分からなかった。


 壁の向こうで、石を擦る音がした。


 アルトはそちらを見る。


 石の表面がわずかに膨らんでいた。まだ指にも腕にもなっておらず、何かになる途中で、何になるのかを決めかねているようにも見えた。


 その形を見ているうちに、アルトは気づいた。


 いや。


 気づいたのではない。


 アルトは、ずっと知っていた。


 魔物は消えていない。


 そのことを誰かに話したことはなかったし、話す必要もないと思っていた。人々の前から魔物は姿を消し、街道を歩く者が増え、夜になれば町の門は閉じられたが、それはもう、魔物を恐れてのことではなかった。


 ときどき魔獣は出た。ゴブリンが畑を荒らし、飢狼が家畜を襲うこともあったが、騎士が向かい、冒険者が討ち、時には村人たちだけで追い払った。


 アルトがいなくても、勇者がいなくても、世界は困らなかった。


 最初のうち、それはアルトを安心させた。誰も自分を呼ばず、次はどこへ行けばいいのかと尋ねる者もいなければ、剣を渡そうとする者もいない。


 世界は、自分で歩いていた。


 それでいいと思った。たぶん、本当にそう思っていた。


 けれど、アルトだけは知っていた。


 目を閉じれば、遠い山の向こうにも、海の底にも、人の入らない森の奥にも、まだ何かがいることだけは分かった。場所も形も定かではなく、眠っているのか起きているのかさえ曖昧だったが、いないものといるものの違いくらいは分かった。


 それは魔獣ではなかった。


 生きるために食べ、子を残し、縄張りを守るために牙を剥くものとは違う。姿が見えなくても、その違いだけは分かった。


 魔物だった。


 それ以上のことを、アルトは知らなかった。そして、知ろうとしなかった。


 世界との繋がりを閉じず、そのまま耳を澄ませていれば、何か分かったのかもしれない。どこにいるのか、なぜそこにいるのか、そもそも何がそこにいるのか。


 けれど、アルトは聞かなかった。


 世界に、なぜ、と。


 世界が答えるとは思っていなかった。世界は人間ではなく、声があるのか、言葉を持っているのか、それさえアルトには分からない。


 それでも、問いを向けることはできたのかもしれない。


 しなかった。


 一つの問いには、その先がある。その先にもまた何かがあり、どこまで行けば終わるのか分からないことを、アルトはもう知っていた。


 だから、最初の問いを持たなかった。


 遠い山の向こうで何かが動いても、そちらを見なかった。海の底から何かが届いても深く触れようとはせず、人の入らない森の奥で何かが息をしていても、ただ遠くにあるものとして残しておいた。


 それでも、ときどき聞こえた。


 誰にも見つからない場所で、何かが息をしている。


 そんな夜は酒を飲み、それでも消えなければ横になった。目を閉じて、眠れるのを待った。


 そのたびに、アルトは眠った。


 硬い音がした。


 アルトは顔を上げる。


 レオが木剣を振っていた。


 ダンに下がれと言われた場所からは動いていない。ただ木剣を両手で握り、何かを確かめるように振っている。


 木剣が空気を切る。


 レオはその音を聞いて、また構えた。


 効かなかった。


 それでも、手放してはいなかった。


 壁の向こうで、石を擦る音がする。


 遠い山の向こうでも、海の底でも、人の入らない森の奥でもない。同じ広間の中で、まだ形を持たない何かが、ゆっくりと壁を押し上げていた。


 アルトはそれを見ていた。


 目を閉じなかった。

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