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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『間』第一節 減らない

第一節 減らない


 魔物が消えた場所には、何も残っていなかった。


 血も、骨も、燃えかすもない。ついさっきまで異形の身体があったはずなのに、石床は昔からそうだったような顔で広間の中央に横たわっていた。


 ガルドが剣先で床を叩くと、硬い音が返ってきた。


「何もねぇな」


 ダンは剣を下ろさなかった。


「だから嫌なんだ」


「残ってりゃ残ってたで、文句言うだろ」


「言う」


 ガルドは鼻を鳴らしたが、その目は笑っていなかった。ダンもそれ以上は言わず、二人は同じ場所を見ながら、それぞれ違うものを警戒しているようだった。


 ノアは病人のそばに膝をつき、手首へ指を当てていた。しばらくして別の者へ移り、同じように確かめる。


「どうだ」


「変わっていません」


「悪くもなってねえのか」


「今のところは」


 その言葉で、広間の空気がわずかに沈んだ。


 安心というほど丈夫な言葉ではなく、絶望というほど決定的でもない。全員が、今という薄い板の上にどうにか足を置いていた。


 レオは木剣を両手で握ったまま、魔物が消えた場所を見ていた。さっき打った感触が、まだ掌の奥に残っているのかもしれなかった。


 ミアは老婆とダンの娘のそばにいた。老婆に服の裾を掴まれたまま、何とか向こうを見ようと背伸びをしている。


「みえない」


「見なくていい」


「でも、レオみてる」


 レオが振り返った。


「見るな」


 ミアは少し考えた。


「レオも」


「俺はいいんだよ」


「なんで」


 レオは答えられなかった。


 ミアはしばらく待っていたが、返事が来ないと分かると、今度は老婆の指を一本ずつ服から外そうとした。一人目で見つかり、また握り直された。


 アルトは少し離れた壁際に立っていた。


 空いた右手を下げている。誰もそこへ剣を渡そうとはせず、次に何をすればいいのかとも尋ねなかった。


 ダンは魔物が消えた場所を見ている。ガルドは壁と扉を見て、ノアは病人を見ていた。レオは木剣を握り、ミアはまだ老婆の指と戦っている。


 誰もアルトを見ていなかった。


 そのことが、少しだけ楽だった。


 昔は戦いが終わるたび、次の場所があった。誰も口にしなくても、次はどこへ行くのか、何を倒せばいいのかという問いが、下ろした荷物のようにアルトのそばへ置かれた。


 今は、それぞれが自分の場所に立っている。


 自分が何もしなくても、物事は少しずつ動いていた。それは嬉しいことでも寂しいことでもなく、その間にある、名前をつけるには少し頼りない感覚だった。


 石を擦るような音がした。


 広間の反対側だった。


 全員が振り向く。


 魔物が消えた場所ではない。石壁の上に、一本の指があった。


 隙間から出ているのではなかった。壁の表面そのものが盛り上がり、節を作り、指の形になっている。爪らしきものまであったが、それが石なのか肉なのかは分からなかった。


 もう一本が現れた。


 ガルドが先に動いた。


 剣が走り、二本の指をまとめて断つ。落ちたものは床へ届く前に形を失い、細かな欠片となって石床へ散った。


 ガルドは剣を構えたまま言った。


「斬れる」


 その声が消えるより先に、別の壁から腕が突き出した。


 今度はダンが踏み込んだ。何かを掴もうとした腕を肩口から断つと、それは壁へ引き戻されるように消え、あとには古い石だけが残った。


「同じ奴か」


「知るか」


 ダンは剣を構え直した。


「出てきたら斬る」


「分かりやすくていいな」


「お前向きだろ」


「俺はもっと賢い」


「初耳だ」


 二人は言葉を交わしながら、別々の方向を見ていた。


 まだ戦える。


 少なくとも、そう見えた。


 先ほどとは姿が違っても刃は届き、斬れば消える。ダンとガルドは、現れるものに遅れず反応できていた。


 レオが一歩出た。


「待て」


 ダンの声に足を止める。


「でも」


「まだいい」


「まだって何だよ」


「今は、俺たちでいい」


 レオは唇を結んだ。納得した顔ではなかったが、それ以上は進まず、木剣を構えたままミアたちの前へ戻った。


 床が盛り上がった。


 人の背中に見えた。肩甲骨のような凹凸と、背骨に似た一本の線がある。しかし頭も腕もなく、背中だけが石床から浮き上がっていた。


 ダンが斬ると、盛り上がりは崩れた。


 ほとんど同時に、天井近くの壁へ顔が現れた。


 顔と呼んでいいのかは分からない。目はなく、鼻も曖昧で、口だけが横に裂けている。


 その口が動いた。


 声はなかった。


 ガルドが走ったが、剣が届く前に顔は消えた。次の瞬間、反対側の壁に同じ口が二つ並んでいた。


 ダンが一つを斬り、ガルドがもう一つを斬る。


 消えた。


 今度は腕が現れた。


 斬れば、床に背中が浮かぶ。そちらを斬ると、天井近くで声のない口が開いた。


 石壁、床、天井の縁。砦のあちこちが、忘れていた身体を少しずつ思い出すように形を変え、そのたび二人の剣が追いかけた。


 ダンの息は、まだ乱れていなかった。ガルドも動ける。


 それでも、何かがおかしかった。


「おい」


「分かってる」


「違う」


 ダンが一瞬だけガルドを見た。


 ガルドは答えず、壁から床へ、床から天井へと視線を移した。考えているというより、目の方が先に何かを探しているようだった。


「さっきから、どれを斬ってる」


「何だよ」


「腕を斬った。口を斬った。背中も斬った」


「だから何だ」


 ガルドは顔をしかめた。言葉が見つからないらしかった。


「同じ奴を斬ってる感じがしねぇ」


 ダンは答えなかった。


 壁から腕が出る。


 斬る。


 消えた場所とは離れた床が、背中の形に盛り上がる。


 それも斬る。


 今度は天井近くで、声のない口が開いた。


 確かに、どれも斬れていた。


 けれど、倒している感じがしなかった。


 ガルドが低い声で言った。


「それで、減ってんのか」


 アルトの右手が閉じた。


 自分でも気づかないうちに、何かを握ろうとしていた。


 何もなかった。


 指を開き、もう一度閉じる。


 やはり何もない。


 昔なら、一体斬れば一体減った。


 魔物がいて、自分がいて、その間には剣があった。刃を振れば、どちらかが倒れ、それで一つ終わった。


 少なくとも、そう思えた。


 広間で、また剣の音がした。


 アルトは右手を開いた。


 石を擦る音がする。


 反対側の壁で、また一本の指が形を持ち始めていた。


 なぜか、その感じを知っている気がした。


 指のことではない。


 魔物のことでもなかった。


 終わったはずなのに、まだ何かが残っている。


 その感じを。

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