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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『繋ぐ』第六節 遠くで降った雨

第六節 遠くで降った雨


 アルトは目を閉じたまま、その場に立っていた。


 遠くで何かが息を吸い、もっと遠くで別の何かがそれに続く。音として聞こえているわけではないのに、そのたびに胸の奥がわずかに動いた。


 風が戻れば消えると思った。鳥が鳴けば森の音に紛れ、砦の中から誰かの声が聞こえれば、自分もそちらへ戻れるような気がした。


 やがて風は戻った。


 木々の葉が夜の中で小さく鳴り、遠くで鳥も一度だけ声を上げた。砦の中からは人の足音と、誰かの低い話し声が漏れてくる。


 それでも、消えなかった。


 アルトは目を開けた。


 一度気づいたものは、気づく前には戻らないらしい。


 そんなことを考えたとき、なぜか昔の川を思い出した。


 魔王の城へ向かう旅の途中だった。


 前の日に雨が降り、川は少し増水していた。濁った水が石にぶつかって白く泡立ち、その音が途切れることなく続いていた。


 アルトは川辺の岩に腰を下ろし、剣の手入れをしていた。リシアは少し離れたところに立って、川を見ていた。


 「人だけじゃないの。」


 アルトは手を止めた。


 「何が。」


 リシアはすぐには答えず、水の流れを目で追っていた。言葉を探しているようにも見えたし、ただ流れていく水を見ているだけのようにも見えた。


 「繋がってるもの。」


 アルトも川を見る。


 「川と何が。」


 「山とか。」


 「川は山から流れてくるだろ。」


 「うん。」


 「それだけじゃないか。」


 リシアは少し笑った。


 「そうかもね。」


 アルトはまた剣へ目を戻した。


 しばらくのあいだ、川の音だけがしていた。濡れた石の上を水が流れ、どこか上流から小さな枝が運ばれてきて、二人の前を通り過ぎていった。


 「昨日、あっちは晴れてたんだって。」


 リシアが言った。


 「どこだ。」


 「あの山の向こう。」


 「それがどうした。」


 リシアは少し考えてから、川を指さした。


 「この水、どこから来たのかなって。」


 「山だろ。」


 「うん。」


 「さっきから何なんだ。」


 リシアは川を見た。


 「遠くで降った雨が、ここまで来ることもあるんだなって。」


 アルトは剣の刃を布で拭った。


 「それは川の話だろ。」


 「そうかもね。」


 リシアはまた川を見た。


 アルトも、それ以上は聞かなかった。


 それだけの会話だった。


 なぜ今になって思い出したのか、自分でも分からない。


 目の前に川はなく、あるのは夜の森と古い砦だけだった。石壁の向こうには病人たちがいて、ついさっきまで魔物がいた。


 今さら、あの話が何だというのだ。


 川の話だ。


 アルトはそう思った。


 遠くで、何かが息を吸った。


 胸が、少し遅れて膨らんだ。


 アルトは息を止めた。


 止められた。


 そのことに、少しだけ安心した。


 砦の中では、ノアが病人たちの呼吸を数え続けていた。


 一人が吸えば、他の者も吸う。吐くときも同じで、何度数えても呼吸は揃っていたが、魔物がいたときより、その間隔は少し長くなっている。


 ノアは最初の男から指を離し、隣の老人の手首へ移した。次に、その隣の女へ移る。


 脈は違っていた。


 熱も違う。年齢も、身体の大きさも違うのに、呼吸だけが揃っている。


 ノアは魔物が倒れていた場所を見た。


 そこには何もない。


 自分は、効いていると言った。


 実際、ダンの剣が魔物へ入るたび、病人の脈は変わった。ガルドが斬ったときにも同じことが起きた。


 それは間違いではない。


 けれど、正しかったとも限らない。


 ノアは病人の手首へ指を戻した。


 もう一度、最初から確かめる。


 分からないものは、分からないままでいい。見ていないものを、見たことにしなければいい。


 ダンは少し離れたところから、その様子を見ていた。


 「どうだ。」


 「分かりません。」


 「さっきも聞いたな、それ。」


 「今も分かりません。」


 ダンは頷いた。


 「そうか。」


 ガルドが横から口を挟む。


 「そいつはいつ分かるんだ。」


 「分かったときです。」


 「便利だな。」


 ノアは答えず、ガルドもそれ以上は言わなかった。


 その向こうで、レオが木剣についた埃を袖で拭っていた。何度か刃を見るように眺めてから、今度は反対側を拭いている。


 「何してる。」


 ガルドが聞いた。


 「手入れ。」


 「木だぞ。」


 「知ってる。」


 「拭いても木だぞ。」


 「分かってるよ。」


 レオは木剣を抱えるようにして、ガルドから少し離れた。ミアがその後ろについていく。


 「レオ。」


 「なに。」


 「ぼーん。」


 「もういいって。」


 ノアは二人を見た。


 正確には、レオが持っているものを見ていた。


 ダンの剣。


 ガルドの刃。


 レオの木剣。


 魔物が倒れるまでに起きたことを、頭の中でもう一度並べてみる。どれも魔物に触れ、そのたびに病人の身体にも何かが起きた。


 ただ、最後に触れたのは木剣だった。


 「レオ。」


 レオが振り返る。


 「なに。」


 「それを見せてください。」


 レオは木剣を抱え直した。


 「なんで。」


 「分からないからです。」


 「何が。」


 「それも分かりません。」


 レオは困ったようにダンを見たが、ダンは何も言わず、ガルドだけが少し笑っていた。


 「折るなよ。」


 「折りません。」


 「絶対?」


 「たぶん。」


 「たぶん?」


 「調べるので。」


 レオはますます嫌そうな顔をした。


 ミアがノアを見る。


 「レオのだよ。」


 「分かっています。」


 「かえす?」


 「返します。」


 ミアは頷いた。


 レオはまだ迷っていたが、やがて木剣を差し出した。


 ノアは両手で受け取った。


 軽い。


 柄のあたりは手の脂で少し黒くなり、刃に見立てた部分には、何度も何かを打った跡が残っている。よく使われているという以外には、変わったところのない木剣だった。


 少なくとも、ノアにはそう見えた。


 病人の一人が息を吸った。


 少し遅れて、他の病人たちが息を吸う。


 ノアは顔を上げた。


 木剣を見て、病人を見る。


 「どうした。」


 ダンが聞いた。


 ノアは答えず、次の呼吸を待った。


 今度は揃っている。


 その次も同じだった。


 ガルドが眉を寄せる。


 「おい。」


 「今、一人だけ遅れました。」


 「何が。」


 「呼吸です。」


 ダンが病人たちを見る。


 「その木剣か。」


 「分かりません。」


 「でも、持ったときだろ。」


 「そうです。」


 ノアは木剣をレオへ返した。


 何も起きなかった。


 病人たちは同じ時に息を吸い、同じ時に吐いた。


 もう一度、ノアは木剣を借りた。


 やはり何も起きない。


 「違うのか。」


 ダンが言った。


 「分かりません。」


 ガルドがため息をつく。


 「またそれか。」


 ノアは病人たちを見ていた。


 一番奥に横たわっていた老人が、少し遅れて息を吸った。


 木剣は、まだノアの手の中にある。


 さっき遅れた男ではなかった。


 ノアはもう木剣を見なかった。


 老人だけを見た。


 何かが変わっている。


 何が変わったのかは、まだ分からない。


 砦の外では、アルトが山の向こうを見ていた。


 遠くで何かが息を吸うたび、別の場所にある何かがそれに続いていた。どこからどこまでが一つなのか、アルトには分からない。


 その中に、わずかな乱れがあった。


 アルトは眉を寄せた。


 今まで同じだったものが、一つだけ遅れたような気がした。


 気のせいかもしれない。


 ――遠くで降った雨が、ここまで来ることもあるんだなって。


 リシアの声が戻ってくる。


 アルトは砦を振り返った。


 石壁の向こうは見えない。ノアが何をしているのかも、病人たちがどうなっているのかも知らない。


 誰かに呼ばれたわけではなかった。


 助けを求める声も聞こえない。


 ただ、さっきまで同じだったものが、同じではなくなった。


 アルトは砦へ向かって、一歩だけ足を動かした。


 遠くで、何かが息を吸った。


 砦の中では、一人の病人が少し遅れて息を吸った。


 アルトは見えないものの中に生まれた違いを感じ、ノアは目の前の身体に生まれた違いを見ていた。


 二人とも、まだ何も知らなかった。


 ただ、同じではなくなったことだけは分かった。

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