『繋ぐ』第五節 聞こえてしまう
第五節 聞こえてしまう
それなのに、病人たちは同じ時に息を吸った。
ノアは指先に意識を集めたまま、次の呼吸を待った。
一人が吸えば、少し離れた老人も、その隣に横たわる若い男も、母親に抱かれた子どもも胸を膨らませる。吐くときも同じだった。
ノアは一人ずつ確かめていった。
脈は違う。速さも強さも、それぞれ違っているのに、呼吸だけが揃っていた。
倒れた魔物へ目を向ける。
胸はもう上下しておらず、レオに打たれた頭も石床へ沈んだままだった。
「違う。」
ダンが振り返る。
「何が。」
ノアは病人の手首から指を離さなかった。
「これじゃない。」
ガルドが眉を寄せる。
「分かるように言え。」
「私も分かりません。」
ノアはそう言って、また脈を数え始めた。
ガルドは何か言いかけたが、やめた。分からないものを分かるように言えと頼んでも、分からないものは分からない。
それくらいのことなら、ガルドにも分かる。
ダンが倒れた魔物へ近づいた。
剣先で触れようとした、そのときだった。
魔物の腕に開いた傷が、わずかに広がった。
ダンが足を止める。
傷口の向こうには石床が見えており、それが少しずつ大きくなっていった。
血は流れず、煙も出ない。何かが崩れる音もしなかった。
ただ、傷の向こうに見えていた石床が広がり、魔物の腕を内側から失わせていく。
消えているようにも見えたが、それとは少し違った。
そこにあったものがなくなるのではなく、最初からそこには石床しかなかったように見えるのだ。
長い腕が途中までなくなり、その向こうにガルドの靴が現れる。やがて肩がなくなり、胸がなくなった。
傷口は形を失いながら広がり、そこにあるはずの身体を、石壁や床や揺れる松明へ置き換えていった。
誰も動かなかった。
ダンは剣を構えたまま見ており、ガルドも何も言わない。
レオだけが、自分の木剣へ目を落とした。
「……折れてない。」
ガルドがレオを見る。
「そこかよ。」
「大事だろ。」
「まあな。」
レオは木剣を握り直した。
そのやり取りで、広間にほんの少しだけ人のいる気配が戻ったが、それも長くは続かなかった。
魔物の頭がなくなった。
最後まで残っていたのは、レオの木剣が触れたあたりだった。それもやがて輪郭を失い、石床の一部になった。
血も骨もなく、ついさっきまで何かが倒れていた痕跡さえ残らなかった。
その瞬間、病人たちが一斉に息を止めた。
ノアが顔を上げる。
広間が静かになった。
あまりに静かで、松明の火が揺れる音まで聞こえてきそうだった。
「息をしてない。」
ノアは最も近くにいた男の胸へ耳を当てた。
ダンが動く。
「おい。」
「待ってください。」
男の口元へ手を近づけ、胸を見る。
ノアは数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
長い時間が過ぎたように感じた。実際には、それほどではなかったのかもしれない。
やがて、病人の胸が持ち上がった。
広間のあちこちで、同じことが起きる。
全員が、同じ時に息を吸った。
誰も何も言わなかった。
ミアは老婆のそばで、壁際を見ていた。
そこには、さっき転がっていった小さな木の実がある。
「また。」
隣にいたダンの娘が、ミアを見る。
「なに?」
「ころころ。」
ダンの娘も木の実を見た。
「うごいてないよ。」
ミアはしばらく眺めていた。
「うん。」
それだけ言うと、また自分の足をさすり始めた。
アルトは木の実を見た。
動いていない。
さっきと同じ場所にある、ただの木の実だった。
それなのに、息が苦しくなった。
病人たちの呼吸が聞こえる。
吸って、吐いて、また吸う。
その繰り返しに、自分の呼吸まで引かれていくような気がした。
アルトは広間を出た。
誰かに声を掛けることもなく通路を抜け、砦の外へ出ると、夜の空気が頬に触れた。
森の向こうには山があり、その上に月が浮かんでいる。木々は風に揺れ、どこかで鳥が鳴いていた。
砦へ来たときと同じ夜だった。
何も起きていない。
そう思った。
思いたかった。
広間ではダンとガルドが魔物を倒し、ノアが病人を見ている。レオもいる。
自分がいなくても、何とかなった。
その事実は、まだなくなっていない。
だから大丈夫だ。
アルトは夜の森を見た。
風が止まった。
木々の葉が動かなくなり、鳥の声も聞こえなくなる。
ほんの一瞬のことだった。
ただ風が途切れただけかもしれないし、鳥が鳴くのをやめただけかもしれない。
アルトは息を吐こうとした。
けれど、その前に胸が膨らんだ。
遠くで、何かが息を吸った。
音が聞こえたわけではない。
森の奥で何かが動いたわけでも、山の向こうに巨大な影が見えたわけでもなかった。
それでも、そうとしか思えなかった。
何かが息を吸い、自分も同じ時に息を吸った。
アルトは胸を押さえた。
違う。
何が違うのかは分からない。
ただ、この感じを知っている。
ずっと昔にも、同じようなことがあった。
その記憶に触れた途端、頭の奥で声がした。
――人だけじゃないの。
アルトは顔を上げた。
リシアの声だった。
どこで聞いた言葉だったのか、すぐには思い出せない。旅の途中だったかもしれないし、まだ魔王の城が遠く、明日のことを今より簡単に話せた頃だったかもしれない。
リシアは何かを話していた。
勇者のことを。
世界のことを。
あの頃のアルトは、半分も聞いていなかった。
勇者とは強い者で、選ばれた者で、世界を救う者だと思っていた。世界と繋がっているという言葉も、そこから力を与えられるという意味なのだろうと、たいして考えもせずに受け取っていた。
だから戦える。
だから魔王を倒せる。
そういう話だと思っていた。
――人だけじゃないの。
その先を思い出せない。
リシアは、何と言ったのだったか。
アルトは目を閉じた。
森が少しだけ近くなった。
土の中へ伸びる木の根や、石の間を流れる冷たい水、遠くで身を伏せている獣。砦の中では、病人たちが同じ時に息をしている。
どれも見えない。
見えるはずがない。
それなのに、そこにあることだけは分かった。
アルトは目を開けた。
息が苦しかった。
思い出したくなかった。
忘れていたのではない。
聞こえなくなったわけでもない。
聞かないようにしていたのだ。
世界の方を見なければ、いつか世界も自分を見なくなるような気がしていた。
けれど、そうはならなかった。
アルトは自分の手を見た。
何も変わっていない。剣を握っているわけでも、身体の中に力が満ちているわけでもなかった。
ただ、聞こえてしまう。
「まだ……。」
その先を口にすることができなかった。
胸の奥に残っているものは、希望には思えなかった。
少なくとも、今は。
逃げ切れていなかった。
砦の中からノアの声がした。
何を言っているのかまでは聞き取れない。
アルトは振り返ろうとした。
そのとき、森の奥で何かが息を吸った。
今度は、一つではなかった。
山の向こうで一つ。
もっと遠くで、もう一つ。
さらに遠い、名前も知らない場所で。
音はしない。
何も見えない。
それでも、それらが同じ何かに触れていることだけは分かった。
アルトは動けなかった。
倒した魔物は、この砦にいた。病人たちもここにいて、木の実は石壁の前にあり、森は砦の外に広がり、その向こうには山がある。
どれも別の場所にあるはずだった。
それなのに今は、見えないところで一つに繋がっている。
どうして分かるのか。
答えはなかった。
ただ、胸の奥に、昔から知っている痛みがあった。
忘れていたわけではなかった。
思い出そうとしなかったのだ。
アルトは目を閉じた。
遠くで、何かが息を吸った。
もっと遠くで、別の何かがそれに続いた。
世界は何も言わなかった。
それでも、アルトには聞こえていた。




