『繋ぐ』第四節 それぞれの場所
第四節 それぞれの場所
「来るな。」
レオの声は震えていた。
それでも魔物は止まらず、音もなく石床を踏みながら、ゆっくりと距離を縮めてくる。
木の実へ向かっているのか、それとも、その先にいるミアたちへ向かっているのか。見ているだけでは分からなかった。
レオは木剣を握り直した。汗で掌が滑り、もう一度「来るな」と言おうとしたとき、その横をダンが抜けた。
何も言わず、振り返りもしなかった。
レオと魔物の間へ入ると、そのまま剣を振り抜く。
刃は魔物の長い腕へ入った。
確かに斬ったはずだった。
けれど血は出ず、裂けた場所には肉も骨もなく、その向こうに広間の石壁が見えた。
ダンの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
その一瞬で、魔物のもう一方の腕が動いた。
「見とれてんじゃねぇ。」
ガルドがダンの肩を掴み、後ろへ引いた。長い腕が、ついさっきまで二人のいた場所を音もなく通り過ぎる。
「見てない。」
「じゃあ避けろ。」
ガルドはそう言いながら魔物の横へ回り、ダンもそれ以上は言い返さず、剣を構え直した。
二人は互いを見なかった。
ダンが前へ出れば、ガルドは半歩遅れて横へ回り、ガルドが魔物の腕を引きつければ、ダンの剣が空いた場所へ入る。
どちらが何をするのか、確かめる必要はないらしかった。
ずっと昔に身体が覚え、そのまま忘れなかったのだろう。
魔物は思ったほど速くなかった。
長い腕は奇妙な方向へ曲がるものの、動きそのものは重く、ダンの剣は通り、ガルドの刃も届いた。
斬るたびに傷は増えていく。
それでも血は流れず、開いた傷の向こうには、そのたびに違うものが見えた。
石壁だったり、床だったり、揺れる松明だったりした。
そこに身体があるはずなのに、その内側だけが、どこか別の場所へ繋がっているようだった。
アルトは、それを見ていた。
ダンの剣の角度も、ガルドが踏み出す足も、魔物の腕が次にどこへ伸びるのかも分かる。
ガルドが半歩遅い。
レオの立つ場所も危ない。
あと二歩、右へ。
そう思ったが、声にはならなかった。
ダンが魔物の腕を受け流し、ガルドが横へ逃れる。
何とかなっている。
アルトはそう自分に言い聞かせたし、実際、何とかなっていた。
ダンがいる。ガルドもいる。レオはミアたちの前に立ち、ノアは病人のそばを離れない。
誰もアルトを見ていなかった。
誰も助けを求めていない。
そのことに気づいたとき、アルトは少しだけ息を吐いた。
剣を握らなくていい。自分が前に出なくても、世界は回っている。
そうであってほしかった。
たぶん、ずっと、そうであってほしかったのだ。
胸の奥に何かが残ったような気もしたが、アルトはそれについて考えなかった。
ノアは病人の手首へ指を当てたまま、戦いを見ていた。
ダンの剣が魔物の肩へ入った瞬間、指先に伝わる鼓動が変わる。
ノアは病人へ目を戻した。
脈が整っていた。
ほんの数拍だけだったが、確かに整い、すぐにまた乱れ始めた。
気のせいかもしれない。
ノアは指の位置を変え、もう一度数える。
ダンの剣が、今度は魔物の腕を斬った。
まただった。
「……もう一度。」
小さく呟いたが、ダンには聞こえない。
魔物の腕が伸び、ガルドが身を引く。そこへダンが踏み込み、もう一度斬った。
指先の脈が戻る。
ノアは顔を上げた。
「ダンさん、もう一度!」
「何をだ!」
「斬ってください!」
「斬ってる!」
魔物の腕を避けながら、ダンが叫び返した。
ノアは病人から手を離さない。
「今、脈が戻りました!」
ダンの目が変わり、ガルドもノアを見た。
「効いてるってことか。」
「分かりません。でも、斬ったときだけ戻っています。」
「それで十分だ。」
ガルドは短く言うと、伸びてきた腕を避け、魔物の脚へ刃を入れた。
身体が傾いたところへダンが回り込み、もう一方の脚を斬る。
魔物の膝が石床へついた。
ノアは脈を数えた。
さっきよりも長く整っている。
「効いています。」
今度は、はっきりと言った。
その言葉が広間に広がった。
魔物は倒せる。
誰も口にはしなかったが、同じことを思った。
ダンの剣は届き、ガルドの刃も通る。動きは遅く、傷は確実に増えている。
見たことのない姿をしているだけで、戦えない相手ではない。
「なんだ。」
ガルドが息を吐いた。
「見た目ほどじゃねぇな。」
「油断するな。」
「してねぇよ。」
「してる奴は、だいたいそう言う。」
「お前は昔からうるせぇな。」
言葉を交わしながらも、二人の足は止まらなかった。
ダンが前から押し、ガルドが横から動きを削っていくうちに、魔物は少しずつ後ろへ下がっていった。
その先に、レオがいる。
レオはまだ、ミアたちの前に立っていた。
ダンの剣が長い腕を弾き、ガルドが脚へ斬り込む。
魔物の身体が大きく崩れ、頭らしきものがレオの前へ落ちてきた。
近い。
横へ避ければ、自分は助かる。
けれど、後ろにはミアとダンの娘がいた。
レオは木剣を握った。
誰も何も言わなかったし、レオ自身も、何かを考えたわけではない。
目の前に魔物の頭があり、手の中に木剣があった。
だから、一歩出た。
そして振り抜いた。
乾いた音が広間に響き、木剣に打たれた魔物の身体が大きく揺れる。
そのまま石床へ倒れた。
レオは木剣を振り抜いた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
魔物も動かない。
やがて、レオはゆっくりと木剣を下ろした。
「……倒した?」
自分でも信じていないような声だった。
後ろから服を引かれ、振り返る。
ミアだった。
「レオ、すごい。」
レオは慌てて首を横に振った。
「いや、俺じゃない。ダンたちがほとんど……。」
「でも、ぼーんってした。」
ミアは木剣を指さした。
「ぼーん?」
「うん。」
レオは自分の木剣を見る。
「……まあ、したけど。」
「木剣で倒れるなら、大した魔物じゃねぇな。」
ガルドが言った。
レオが顔を上げる。
「今のは、俺もちょっと頑張っただろ。」
「ちょっとな。」
「結構だよ。」
「じゃあ、結構でいい。」
ガルドはそう言って、倒れた魔物へ目を戻した。
そのやり取りのあいだに、広間に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
ダンは剣を下ろしきらないまま倒れた魔物を見ており、ガルドもまだ刃を収めてはいなかった。
それでも誰かが息を吐き、それにつられるように、また別の誰かが息を吐いた。
ノアは病人の脈を取った。
「落ち着いています。」
その言葉で、ようやくダンが剣先を下げた。
アルトは倒れた魔物を見ていた。
終わったのだと思った。
自分は何もしなかった。剣にも触れず、誰かを守ったわけでもない。
それでも、誰も死ななかった。
ダンとガルドが戦い、ノアが気づき、レオも自分のいる場所に立っていた。
自分がいなくても、何とかなった。
アルトは心の底から安堵した。
これでいい。
これがいい。
もう、自分でなくてもいい。
その言葉は、長いあいだ探していた答えのようでもあり、何かを諦めるための言い訳のようでもあった。
どちらなのか、アルトには分からなかった。
ただ、今は剣を握らずに済んだ。
それだけでよかった。
ノアだけが、まだ病人の手首から指を離していなかった。
脈は落ち着き、呼吸も戻っている。
倒れた魔物の胸は、もう動いていない。
ノアは指先へ意識を戻した。
一人の病人が息を吸う。
少し離れた老人も、同じ時に胸を膨らませた。
その隣も。
さらに、その隣も。
ノアはゆっくりと顔を上げ、倒れた魔物を見た。
もう、息をしていない。
それなのに、病人たちは同じ時に息を吸った。




