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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『繋ぐ』第三節 動かないもの

第三節 動かないもの


 「あれが、魔物だ。」


 アルトの声が消えたあとも、誰も動かなかった。


 魔物もまた、動かなかった。


 壁から抜け出してきた異形は、広間の中に立ったまま、次に何をすればいいのかを考えているようにも見えた。もちろん、本当に何かを考えているのかどうかは、誰にも分からない。


 ただ、ときおりまばたきをした。


 そのたびに、アルトは見られているような気がした。


 ダンは剣を構えたまま尋ねた。


 「知ってるのか。」


 アルトは答えようとしたが、何も浮かばなかった。


 目の前にいるものが魔物であることだけは分かる。誰に教えられたのかも、いつ知ったのかも思い出せないのに、それだけは疑うことができなかった。


 では、魔物とは何なのか。


 何から生まれ、何を求め、どうすれば倒せるのか。


 そこから先には何もなかった。


 「……分からない。」


 ダンがわずかに眉を寄せた。


 「魔物か。」

 戦場で人より多くのものを見てきた。

 ただ、今目の前にいる何かは、ダンの記憶する魔物とは異なるものだった。


 「名前は分かる。」


 口にしてから、アルトは自分でも奇妙なことを言っていると思った。


 「それだけだ。」


 ダンはしばらくアルトを見ていたが、それ以上は尋ねなかった。


 アルトも魔物へ目を戻した。


 何も分からない。


 それなのに、身体のどこかだけが、ずっと前から知っているように怯えている。


 魔物がまばたきをした。まばたきのような何かといった方がいい。目の当たりにある何かが蠢いた。


 その一瞬だけ、また見られた気がした。


 「動かねぇな。」


 ガルドの声が、沈黙を破った。


 ダンは魔物から目を離さない。


 「だから困ってる。」


 「動かねぇなら、こっちが動く。」


 ガルドは剣を持ったまま、背後の盗賊たちを振り返った。


 「何してる。運べ。」


 盗賊の一人が、魔物を見る。


 「でも……。」


 「立ってる奴より、寝てる奴を先にどうにかしろ。」


 それで盗賊たちは動き始めた。


 自分で歩ける者には肩を貸し、動けない者は二人がかりで運ぶ。ガルドは入口までの道を空けさせ、途中に置かれていた椀や荷物を壁際へ寄せていった。


 ダンが横目で見る。


 「昔から、逃げる準備だけは早かったな。」


 ガルドは足元の荷物を蹴り寄せた。


 「お前が遅すぎたんだよ。」


 「そうだったか。」


 「そうだった。」


 ダンの口元が、ほんの少しだけ動いた。


 「それで、最後まで残ってたのは誰だった。」


 ガルドの手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 「昔話してる場合か。」


 それだけ言うと、近くにいた盗賊へ顎をしゃくった。


 「そっち持て。」


 二人で病人を抱え上げる。


 ダンも、それ以上は何も言わなかった。


 魔物は動かない。


 病人が一人、また一人と運び出されても、目を開いたまま何も見ず、ときおり思い出したようにまばたきをしていた。


 ノアは病人のそばに残っている。


 脈を数えてから顔を上げると、魔物の胸がゆっくりと膨らんでいた。


 もう一度、病人の手首へ意識を戻す。


 しばらくして、また顔を上げた。


 「……もう一度。」


 誰に言うでもなく呟き、最初から数え直す。


 魔物の胸が膨らんだ。


 少しして、病人が息を吸う。


 吐いて、また吸う。


 ノアは眉を寄せ、今度は隣の老人へ手を伸ばした。


 脈を数え、魔物を見る。


 また数える。


 何かが合っているように思えるのに、どこかが違う。


 魔物が先なのか、病人が先なのか、それすら分からなかった。


 「……違う。」


 小さく呟き、ノアはまた最初から数え始めた。


 その様子を、老婆が黙って見ている。


 ミアは最初のうち、レオの背中から魔物を覗いていた。


 けれど、いつまで経っても何も起きない。


 やがて隣に座っていたダンの娘へ、そっと顔を寄せた。


 「あし、いたい。」


 「しーっ。」


 「でも、いたい。」


 「がまんして。」


 ミアは口を尖らせた。


 少し足を伸ばすと、今度はレオの踵に当たる。


 レオが振り返った。


 「何してるんだ。」


 「あし、いたい。」


 「今?」


 ミアは頷いた。


 レオは何か言おうとしたが、やめた。


 「……もう少し我慢して。」


 「さっきもいわれた。」


 「じゃあ、もうちょっとだけ。」


 「どのくらい?」


 レオは困ったように魔物を見た。


 「分からない。」


 ミアは少し考えた。


 「みんな、わかんないね。」


 そう言って、また足をさすり始める。


 レオは返事をしなかった。


 魔物のことを言ったのか、それとも自分の足のことを言ったのか。たぶん、ミア自身にも分かっていなかった。


 ガルドは病人を外へ出しながら、何度かアルトを見ていた。


 最初に立っていた場所から、ほとんど動いていない。剣にも触れず、ただ魔物を見ている。


 アルトが何を見ているのか、ガルドには分からなかった。


 自分の目に映っているのは、得体の知れない化け物だった。動くかもしれないし、襲ってくるかもしれない。だから逃げ道を作り、運べる者から運ぶ。


 ガルドにできるのは、それくらいだった。


 けれど、アルトは違うらしい。


 同じものを見ているはずなのに、もっと遠くにある何かまで見てしまっているような顔をしていた。


 勇者と呼ばれた男には、自分には分からない苦しみもあるのだろう。



 立ったまま動けなくなった人間を、ガルドは何人も見てきた。


 戦場にもいたし、盗賊になってからもいた。


 自分も、そうだったことがある。


 何もかもが嫌になっても腹は減るし、夜になれば眠る場所を探さなければならない。雨が降れば濡れるし、冬になれば寒くなる。


 世界は、人間が動けなくなったからといって、一緒に止まってはくれない。


 昔のガルドは、それを残酷だと思っていた。


 今は、少しだけ違った。


 止まってくれないからこそ、気づけば自分も動いていることがある。


 それが良いことなのかどうかは、まだ分からなかった。


 ガルドはアルトのそばを通り過ぎた。


 「おい。」


 アルトがわずかに顔を動かす。


 「そこに立つなら、邪魔になるなよ。」


 アルトは何も言わなかった。


 ガルドも返事を待たず、次の病人へ向かう。


 しばらくして、アルトは一歩だけ横へ動いた。


 それだけだった。


 けれど、その一歩ぶん空いた場所を、病人を抱えた盗賊が通っていった。


 魔物は、まだ動かなかった。


 病人たちの半分ほどが広間から運び出された頃には、張り詰めていた空気も少しずつ形を変え始めていた。


 ダンの剣先が、わずかに下がっている。


 ガルドは次に誰を運ぶかを見ており、盗賊たちの足音も最初より大きくなっていた。


 何も起きない。


 そう思い始めた者もいたかもしれない。


 そのとき、魔物の顔が初めて動いた。


 アルトではなかった。


 ゆっくりと首を傾け、壁際へ顔を向ける。


 そこには古い石壁と、その前に転がった小さな木の実があるだけだった。


 ミアが顔を上げた。


 「あ。」


 魔物が一歩を踏み出した。


 石床へ足が触れたはずなのに、音はしなかった。


 誰も動けない。


 魔物はもう一歩、前へ出る。


 木の実は動かない。


 その先には、ミアとダンの娘がいる。


 レオが前へ出た。


 考えてから動いたのではなかった。


 気づいたときには、二人と魔物の間に立っていた。


 木剣を両手で握る。


 掌は汗で濡れていた。腕も震えている。


 魔物が三歩目を踏み出す。


 レオは木剣を構えた。


 「来るな。」


 声が震えた。


 それでも、後ろへは下がらなかった。

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