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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『繋ぐ』第二節 魔物

第二節 魔物


 ノアの指先で、病人の鼓動が一つ、大きく跳ねた。


 反射的に顔を上げたが、男の様子に目立った変化はない。苦しそうに胸を押さえることも、呻き声を上げることもなく、むしろ浅く途切れていた呼吸が一度だけ深くなった。


 ノアは眉を寄せ、もう一度手首へ指を当てる。


 先ほどよりも明らかに速い。それなのに、鼓動そのものは乱れていなかった。


 何かを確かめるように、ノアは隣に横たわる老人へ手を伸ばした。


 同じだった。


 壁際の若い男も、母親に抱かれている子どもも、程度の違いこそあれ脈が速くなっている。


 偶然ではない。


 ノアは声を上げず、一人ずつ確かめていった。脈を取り、瞳を見て、呼吸を数える。熱は変わっておらず、咳も止まってはいない。それでも病人たちの身体には、ほとんど同じ時に、同じ変化が起きていた。


 理由が分からない。


 ノアはもう一度、最初の男へ戻った。


 その様子を、少し離れたところから老婆が見ていた。


 ノアが何度も病人の間を行き来するたび、老婆の目がその後を追う。やがて何かを思い出したように目を細めたが、声を掛けることはなかった。


 ミアとダンの娘は、老婆のそばに座っていた。


 二人はまだ手を繋いでいる。


 しばらくして、ダンの娘が呟いた。


 「手、あったかくなった。」


 ミアは繋いだ手を持ち上げた。


 「ほんとだ。」


 「さっき、つめたかった。」


 「わたしの?」


 「ううん。わたしの。」


 ミアは少し考えた。


 「じゃあ、わたしがあったかくしたのかな。」


 「そうなの?」


 「わかんない。」


 二人は顔を見合わせた。


 ミアが笑うと、ダンの娘も少しだけ笑った。


 その足元を、小さな木の実が転がっていった。


 ミアはその木の実を目で追う。


 木の実は床の凹みに沿ってゆっくり転がり、やがて石壁の前で止まった。


 ミアは首を傾げる。


 「へんなの。」


 ダンの娘が不安そうに尋ねる。


 「何が?」


 「きのみ。」


 「きのみ?」


 ミアは頷いた。


 「ころころ。」


 それだけだった。


 意味は分からない。


 ただ、転がったものを見ただけだった。


 通路の奥では、アルトが来た道を見つめていた。


 「奥じゃない。」


 その言葉を聞くなり、ダンが駆け出した。


 ガルドもほとんど同時に踵を返したが、通路を抜けたところでダンとは別の方角へ目を向ける。


 ダンはそのまま病人たちのいる広間へ走り、ガルドは入口で足を緩めた。


 戸口。荷台。外へ続く道。


 広間にいる人数を見渡し、すぐに盗賊たちへ声を飛ばす。


 「立てる奴から外へ出せ。荷台は動かすな。道が塞がる。」


 盗賊たちは理由を聞かず、すぐに動き始めた。


 ダンはノアのそばへ膝をつく。


 「何があった。」


 「脈が変わりました。」


 「悪くなったのか。」


 ノアは首を横に振った。


 「分かりません。」


 その答えに、ダンが眉を寄せる。


 ノアは病人から手を離さないまま続けた。


 「速くなっています。でも、呼吸は少し楽になっている。普通なら、あまり同時には起きません。」


 「一人だけか。」


 「いいえ。」


 ノアは広間を見渡した。


 「全員です。」


 遅れて戻ったレオは、真っ先にミアたちを探した。


 老婆のそばに二人を見つけると、わずかに肩の力が抜ける。ミアが気づいて手を振った。


 「レオ。」


 レオも片手を上げたが、すぐに周囲へ目を戻した。


 何もいない。


 それでも木剣は手放さず、二人と広間の間へ立つ。


 最後にアルトが戻ってきた。


 広間を見渡す。


 病人たちはいる。ノアもいる。ミアも、ダンの娘も、老婆もいる。


 何も起きていないように見えた。


 ダンが振り返る。


 「どこだ。」


 アルトは答えられなかった。


 近い。


 それだけは分かる。


 だが、どこにいる。


 目を閉じれば分かるような気がした。


 その考えが浮かんだ瞬間、アルトは目を閉じることをやめた。


 「待ってください。」


 ノアの声だった。


 病人の手首へ触れたまま、じっと指先へ意識を向けている。


 「今度は、遅くなっています。」


 ダンが見る。


 「脈が?」


 「はい。」


 ノアは隣の老人へ移り、しばらくしてから、さらに別の病人へ手を伸ばした。


 「この人も。」


 誰も言葉を挟まなかった。


 病人たちの呼吸が、少しずつ長くなっていく。一人、また一人と変わり、やがて広間のあちこちから聞こえていた息遣いが、奇妙なほどゆっくりと重なり始めた。


 吸って、吐く。


 また、吸って、吐く。


 ノアが顔を上げた。


 その呼吸の中に、いつの間にか別の音が混じっていた。


 低く、長い音だった。


 誰も動かなかった。


 また聞こえる。


 今度は、石壁の向こうからだった。


 誰かが、ゆっくりと息を吸っている。


 ダンが立ち上がり、ガルドも壁へ顔を向けた。


 石は割れていない。隙間もなければ、その向こうへ続く部屋もない。ただ、古い壁があるだけだった。


 松明の火が揺れた。


 風はない。


 壁に、人の影が映っていた。


 ダンが剣を抜く。


 影は動かない。


 松明の前を横切る者はおらず、広間にいる誰のものでもない。それでも影だけが、まるで最初からそこにいたように石壁の上へ立っていた。


 レオがミアたちの前へ出て、木剣を両手で握る。


 影の右腕が動いた。


 少し遅れて、左腕も動く。


 人が歩き出す前の仕草に似ていたが、肩の位置がずれ、片方の腕だけが不自然に伸びていく。


 やがて膝のようなものが曲がり、石壁から黒い輪郭が浮き上がった。


 誰かが息を呑んだ。


 影が、壁から離れる。


 剥がれ落ちたのではない。


 平らだったものが、少しずつ厚みを持っていく。


 最初に足が石床へ触れ、それから身体が続いた。


 人ほどの背丈があり、二本の腕と二本の脚、頭らしきものもある。それだけなら、遠目には人に見えたかもしれない。


 けれど、右腕は左より少し長く、肘は人なら曲がらない場所でわずかに折れていた。胸はゆっくりと上下しているのに、その動きと聞こえてくる呼吸の音が合っていない。


 顔がある。


 目もある。


 だが、その目は開いている間、どこも見ていないようだった。


 それが一度、まばたきをした。


 アルトの背中を、冷たいものが走る。


 目を閉じた、その一瞬だけ。


 見られた。


 ダンが剣を構えた。


 ガルドも壁際から離れ、少し角度を変えて立つ。レオはミアたちの前から動かず、ノアも病人のそばを離れなかった。


 誰も、それが何なのか分からない。


 そして、それもまた動かなかった。


 ただ、広間に立っている。


 長い沈黙のあと、レオが小さく口を開いた。


 「……魔物?」


 アルトの口から、言葉がこぼれた。


 「違う。」


 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。


 ダンがアルトを見る。


 レオも振り返る。


 けれどアルトは、目の前のものから目を離せなかった。


 言葉の方が先に出てくる。


 ずっと使わなかった言葉だった。


 それでも、知っている。


 「ゴブリンや飢狼は、魔獣だ。」


 「魔獣?」


 ダンが聞き返す。


 アルトは答えなかった。


 胸の奥で、何かが軋んでいる。


 怖い。


 目を逸らしたい。


 それなのに、目の前にいるものを知らないとは思えなかった。


 どこで見た。


 誰に聞いた。


 いつ知った。


 思い出そうとした途端、息が苦しくなる。


 それが、またまばたきをした。


 ほんの一瞬、目が閉じる。


 今度は疑いようがなかった。


 それは、アルトを見ていた。


 「あれが……」


 言葉にすれば、何かが戻ってくる。


 そんな気がした。


 それでも、もう口を閉じることはできなかった。


 「あれが、魔物だ。」


 広間の誰も動かなかった。


 魔物も動かない。


 ただ、アルトと魔物だけが、互いを見ていた

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