『繋ぐ』第一節 暗がりの先
第一節 暗がりの先
暗闇は何も語らなかった。
それでも、アルトが「いる」と口にしたあと、砦の中にいた者たちの視線は、申し合わせたように奥の通路へ集まっていた。
誰もすぐには動かなかった。
病人の咳は続いている。人が動くたびに荷台が小さく軋み、どこかでは水の入った椀が石床へ置かれた。それまでと何一つ変わらないはずの音が、暗がりを前にした途端、ひどく遠くから聞こえてくる。
やがて、ダンがアルトの隣へ立った。
「どこだ。」
アルトは答えようとして、言葉に詰まった。
見えているわけではない。足音を聞いたわけでもなければ、影が動くのを捉えたわけでもない。それなのに、あの暗がりの向こうに何かがいることだけは、なぜか疑えなかった。
「……奥だと思う。」
口にしてから、自分の言葉に違和感を覚えた。
思う。
そんな曖昧なものだっただろうか。
気のせいかもしれないと笑える程度の感覚なら、どれほど楽だっただろう。疲れているだけだと決めつけ、見なかったことにできるほど頼りないものであれば、アルトはきっとそうしていた。
けれど、できなかった。
あの奥に、何かがいる。
その確信がどこから来るのかを考えかけた瞬間、胸の奥がわずかに縮んだ。そこへ触れるなと、身体のどこかが訴えている。
アルトは考えるのをやめた。
ダンはしばらくその横顔を見ていたが、理由を尋ねることはなかった。
「分かった。」
それだけ言うと、腰の剣へ手を掛ける。
アルトは思わず顔を上げた。
どうして分かるのかと聞かれると思っていた。本当にいるのかと確かめられることも、気のせいではないのかと疑われることも覚悟していた。
けれど、ダンはもうアルトを見ていなかった。
暗がりの先を見ている。
勇者だった自分の言葉だから信じたわけではないのだろう。
そう気づいたとき、胸の奥に生まれたものを、アルトはうまく言葉にできなかった。嬉しいとも違うし、救われたとも思えない。ただ、少しだけ苦しかった。
ダンが通路へ向かうと、ガルドも壁際に置いていた剣を取った。
「おい。」
ダンが足を止める。
「なんだ。」
「先に行くな。」
ダンは少しだけ振り返った。
「じゃあ、お前が行くか。」
「そういう意味じゃねぇ。」
ガルドは面倒そうに眉を寄せながら、剣を腰へ差す。
ダンはそれを見て、小さく笑った。
「なら、昔と同じだ。」
ガルドは一瞬だけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「それが気に入らねぇんだよ。」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
ダンが通路の中央を進み始めると、ガルドは少し遅れて右へ寄る。互いに目を合わせることもなければ、どちらがどこを見るのかを確かめることもない。それでも、ダンの視線が足元へ落ちればガルドは天井を見上げ、ガルドが壁際の窪みを確かめている間は、ダンが曲がり角の先から目を離さなかった。
昔と同じ。
その言葉の意味を、レオは聞かなかった。
聞く必要もなかった。二人の身体の方が、ずっと前から答えを知っているように見えた。
レオは自分の木剣へ目を落とした。
何度も振り、何度も手入れをしてきた、握り慣れたはずの木剣だった。それなのに、今は妙に軽く感じられる。
掌の汗を服で拭い、もう一度握る。
「レオ。」
ダンに呼ばれ、顔を上げた。
「うん。」
レオはそれだけ答え、前へ出た。
ゴブリンなら知っている。飢狼も知っている。牙があり、爪があり、襲ってくるなら戦えばいい。
だが、今は何も見えない。
何も見えないものに向かって歩くのが、これほど嫌なものだとは知らなかった。
レオは一度だけ後ろを振り返った。
壁際では、ミアとダンの娘が並んで座っている。ダンの娘は暗がりへ向かう父親の背中をじっと見つめ、膝の上で小さな手を固く握っていた。
ミアもまた、レオを見ていた。
レオは大丈夫だと言おうとして、やめた。大丈夫かどうかなど、自分にも分からない。
代わりに少しだけ笑うと、ミアも笑い返した。
それから隣へ目を向け、ダンの娘の握られた手を見つけると、自分の手をそっと重ねる。
ダンの娘が驚いて顔を上げた。
「……どうしたの?」
「わたしもこわい。」
ミアはそう言った。
励ますつもりなどなかったのだろう。自分も怖かったから、誰かの手を握った。ただ、それだけだった。
ダンの娘は少しだけ目を丸くしたあと、ミアの手を握り返す。
二人のそばにいた老婆は何も言わず、肩が触れ合うほど近くへ子どもたちを引き寄せた。
その頃、ノアは病人の一人へ手を添えていた。
暗がりへ向かうダンたちが気にならないわけではない。何がいるのか確かめたい気持ちもある。それでも、目の前の男の呼吸は浅く、額には先ほどまでなかった汗が浮かんでいた。
ノアは手首へ指を当てる。
脈が速い。
「ノア。」
ダンの声に顔を上げると、二人の視線が合った。
ノアは一度だけ通路を見てから、病人へ目を戻した。
「私はここにいます。」
ダンは頷いた。
「頼む。」
それだけでよかった。
戦える者が奥へ行き、自分はここに残る。今は目の前にいる人間を診る。それが自分の役目だった。
けれど、指先に伝わる鼓動が、先ほどよりわずかに速くなっている。
ノアは眉を寄せた。
熱は変わっていない。呼吸にも大きな変化はなく、痛みを訴える様子もない。それでも脈だけが少しずつ乱れ始めていた。
もう一度、数える。
やはり速い。
ノアは顔を上げた。
ダンたちは、すでに通路へ足を踏み入れている。その遠ざかる背中を見つめているうちに、指先でまた一つ、鼓動が跳ねた。
アルトも三人のあとを追って通路へ入った。
先頭にはダンがいる。その少し右をガルドが歩き、後ろをレオが進んでいた。
アルトは最後だった。
かつてなら。
何の前触れもなく浮かんだ言葉を、すぐに押し込める。
今はただ、三人の後を歩けばいい。
そう思っているのに、通路へ入った途端、視線が勝手に動き始めた。
曲がり角までの距離を測り、壁の窪みを確かめ、天井の高さを見る。松明の位置から影の深さを読み、もし何かが飛び出してきたなら、どこへ避けるべきかを考えている。
戦うつもりなどないし、剣を抜くつもりもない。
それなのに、目は知っていた。
身体も知っていた。
何年も使わず、もう失ったことにしていたものが、暗がりへ足を踏み入れただけで、昨日までそうしていたかのように動き始めている。
そのことに気づいた瞬間、アルトの足がわずかに鈍った。
奥にいる何かよりも、自分の身体の方が怖かった。
剣の握り方も、敵の探し方も、危険がどこから来るのかを見つける方法も、おそらく何一つ消えてはいない。
では、それ以外は。
そこまで考えたところで、アルトは無理やり目の前の暗がりへ意識を戻した。
思い出すな。
声にならない言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
忘れていたわけではない。
そのことを、アルトはまだ認めたくなかった。
不意に、ダンが足を止めた。
ほとんど同時にガルドも止まり、少し遅れてレオが立ち止まる。
通路は、その先で左へ曲がっていた。石壁に掛けられた古い松明が、弱い炎を揺らしている。
何もいない。
少なくとも、目にはそう見えた。
ダンは曲がり角の先を見つめたまま、静かに尋ねる。
「この先か。」
アルトは答えなかった。
何かがおかしい。
さっきまで、確かに奥にいた。暗がりの向こう、砦のさらに深い場所にいるのだと、疑うことなく分かっていた。
けれど、今は違う。
アルトはゆっくり顔を上げた。
「ダン。」
自分でも分かるほど、声が強張っている。
ダンの手が剣の柄へ掛かった。
「どうした。」
アルトは答えようとして、一度息を止めた。
足音は聞こえない。影も動いていないし、風さえ吹いていない。
それなのに、さっきより近い。
まただ。
理由など何一つ分からないのに、分かってしまう。
「……動いた。」
ダンが剣を抜いた。
澄んだ金属音が暗い通路を走り、石壁の向こうへ長く消えていく。
ガルドも剣を抜き、レオは木剣を両手で握り直した。
誰の目にも、まだ何も映ってはいない。
アルトは暗闇を見つめる。
何かが、こちらへ近づいている。
そう思った。
だが、次の瞬間、その考えが間違っていたことに気づいた。
アルトはゆっくりと振り返った。
誰もいない。
自分たちが通ってきた暗い通路が、砦の入口へ向かって伸びている。
その先には病人たちがいる。
ノアがいる。
ミアと、ダンの娘がいる。
アルトの顔から血の気が引いた。
「違う。」
ダンが振り返る。
「何がだ。」
アルトは来た道の先を見つめたまま、答えた。
「奥じゃない。」
その頃、病人の手首へ触れていたノアの指先で、鼓動が一つ、大きく跳ねた。




