『君と君』第三節 空いた手
第三節 空いた手
雨はとうに上がっていた。それでも軒先から落ちる雫だけは少し遅れて季節についてきているようで、濡れた石畳に映った雲を、一滴ごとに静かに揺らしていた。戦いの匂いは土の中へ沈み、風だけが何事もなかったような顔で砦を抜け、石垣の根元に咲く白露草をゆっくりと伏せさせていく。
ダンはガルドの肩から手を離した。
そのまま支えて歩くこともできた。しかし、それではここまで自分の足で積み重ねてきた時間まで抱え込んでしまう気がした。掌にはまだ体温が残っている。それは誰かを支えていた証ではなく、もう支えなくてもいいと身体が納得するまで消えずにいる、小さな熱だった。
ガルドは一歩踏み出す。
濡れた石に靴底がわずかに逃げ、身体はほんの少しだけ遅れる。それでも倒れなかったのは、もう片方の足が考えるより先に地面を探していたからで、人の身体というものは、ときどき持ち主より先に帰る場所を覚えているらしかった。
門の内側には見慣れた顔が並んでいた。
荷を運ぶたび文句ばかり言う男は腕を組み、鍋番の老婆は火を落とした鍋をそのままに戸口へもたれている。昨夜まで口論していた若者は鼻の頭を掻きながら目を逸らしたが、それでも誰一人として持ち場へ戻ろうとはしなかった。
迎えに来たわけではない。
見届けるためでもない。
ただ、それぞれの朝を少しだけ遅らせて、そこに立っている。
ガルドは一人ずつ顔を見て、それから石垣へ目を落とした。
白露草が雨粒を抱えて俯いている。
誰が植えたのかは知らない。
咲き始めた日も知らない。
それでも毎朝そこにあったという事実だけは、どんな記憶より確かだった。
帰る場所など、とっくに失くしたと思っていた。
そう思い込んでいた人間が、毎日同じ門をくぐっていたのだから、人は案外、自分の人生より少し遅れて自分に追いつく。
黒は、その景色を見ていた。
人は離れて立っている。
肩が触れるほど近くはなく、手を伸ばしても届かない者もいる。その間を風が抜け、雨水が迷わず流れていく。それなのに、その隙間は何も壊さず、むしろ互いを失わせないためにあるように見えた。
黒は一歩近づく。
景色は近くなる。
しかし距離は変わらない。
もう一歩。
やはり変わらない。
近づくことと、一つになることは違うのか。
その問いだけが、雨上がりの湿気のように黒の中へ静かに残った。
「……まだ、いる。」
ミアが小さく言った。
レオは振り返ったが、すぐには訊かなかった。ミアの言葉は説明ではなく景色なのだと、この旅の途中で少しずつ覚え始めていたからだ。
「誰が?」
少し遅れて尋ねる。
ミアは黒を見ているようで、その向こうを見ているようでもあった。
「分からない。でも、一人じゃない。」
その答えは誰にも届かなかった。
届かなかったことだけが、不思議なくらいはっきり残った。
ノアは濡れたノートを開き、紙が丸まらないよう左手で押さえた。その瞬間だけ、自分ではない誰かの時間が指先へ重なった気がして、思わず手を離す。
陽の当たる窓辺。
紙を押さえる白い指。
何かを言って笑う声。
どれも輪郭になる寸前で水面へ落ちた小石のように沈み、波紋だけを残して消えていく。
思い出せないのではない。
思い出す場所そのものが、自分の中から静かに失われていた。
鉛筆は紙の上へ置かれたまま、結局一文字も増えなかった。
レオはダンの手を見ていた。
節くれだった指はもう誰にも触れていない。それでも空いているようには見えなかった。何かを持っているのではなく、何かを離した形のまま、その手はそこにあった。
その隣でアルトは雨水を見ていた。
石畳を流れる細い流れは、別々だった雫を少しずつ集めながら門の外へ向かっている。どこから来た水なのかは、もう誰にも分からない。それでも、一滴ずつだった時間だけは確かにあった。
「人はさ。」
アルトが言った。
誰へ向けた言葉でもなかった。
「いつか海になっても、忘れられないものがある。」
誰も返事をしない。
黒だけが、その言葉の意味を測ろうとしていた。
アルトは流れを見たまま、小さく息を吐く。
「……だから、まだ怖い。」
風が吹き、石の窪みに残っていた雫が一つだけ流れへ落ちた。
あの日も。
勇者だった日々も。
世界から目を逸らした日も。
自分は選んでいたつもりだった。
けれど振り返るたび、選ばされていただけだったのではないかという考えが、雨より静かに帰ってくる。
父の手も。
母の手も。
結局どちらも掴めなかった。
知れば選ばなければならない。
選べば失うかもしれない。
だから世界を知ることを、自分から少しずつやめた。
その癖は旅が終わった今も、身体のどこかへ残っている。
黒には、その恐れが分からない。
流れは流れだ。
海は海だ。
一つになれば、それで終わる。
昨日まで雫だったことを覚えている理由が、黒にはなかった。
だから失うこともない。
選ぶこともない。
迷うこともない。
苦しむこともない。
アルトは歩き出した。
怖さが消えたわけではない。
世界を信じられるようになったわけでもない。
それでも足だけは前へ出る。
考えるより先に。
雨水は門の外へ流れ、一本の細い流れになって坂を下っていく。
その途中、石の窪みには、まだ形を崩さない雫が幾つも残っていた。
流れへ加わるものもある。
最後まで雫であり続けるものもある。
黒は、その違いを見ていた。




