『継なぐ』第五節 広がる世界
第五節 広がる世界
砦の方角から悲鳴が響いた瞬間、誰かが声を張り上げることはなかった。
ダンは反射的に駆け出し、ガルドもほとんど同時に地面を蹴る。レオはミアの小さな手を握り直し、ノアは周囲へ一度だけ視線を巡らせてから静かに後を追った。アルトも息を整える間もなく走り始める。
草を踏み分ける音だけが、谷の静けさへ幾重にも重なっていく。
走るほどに砦は近づく。
その景色を見つめながら、ガルドの脳裏には、不意に遠い日の戦場がよみがえっていた。
土煙が立ちこめ、血と鉄の匂いが風に混じる中、倒れた仲間が苦しげな声で叫ぶ。
「置いていけ!」
誰かが怒鳴った。
「助からねぇ!」
その声を聞き流すように、ダンは迷いなく負傷兵を肩へ担ぐ。
「一人増えたくらいで潰れるほど、やわな身体じゃない。」
ガルドは舌打ちしながら、もう一人の腕を肩へ回した。
「馬鹿だな、お前。」
「お前もだろ。」
二人は笑い、また走る。
あの頃から、自分は何も変わっていない。
人を見捨てることだけは、どうしてもできなかった。
戦が終わり、傭兵を辞め、盗賊になってからも同じだった。
奪うことには慣れた。
脅すことにも慣れた。
刃を向けることにも、返り血を浴びることにも慣れた。
それでも、目の前で誰かが倒れているのを見過ごすことだけは、最後まで覚えられなかった。
あの頃から、何も変わっていないのかもしれない。
変わったと思い込んでいただけで、結局、自分はずっと同じところに立っていたのかもしれない。
ただ、このところ昔よりも少しだけ、見えるものが増えた。
盗賊としては半端者だったのだろう。
砦が目前まで迫る。
入口では盗賊たちが病人を運び出し、水桶を抱え、戸板を担ぎ、互いに声を掛け合いながら慌ただしく動いていた。
誰も命令を待っていない。
できる者が、できることをする。
ただ、それだけだった。
ガルドも自然とその輪へ加わり、近くにいた老人を抱え上げる。
驚くほど軽い身体だった。
「外へ運ぶ。」
短く告げると、盗賊たちは無言で頷き、それぞれ別の病人へ駆け寄っていく。
ダンは荷台の荷物を降ろして寝かせる場所を作り、レオは転びそうになった子どもを抱き上げて母親へ返した。
「大丈夫。」
その一言に、母親は何度も頭を下げる。
ノアは運び込まれる病人を一人ずつ診察し、熱を測り、脈を取り、動かしてはいけない者と今すぐ運ぶべき者を迷いなく選び続けていた。
誰も英雄ではない。
それでも誰も、自分にできることから逃げようとはしなかった。
ガルドは病人を抱えたまま、一瞬だけアルトへ視線を向ける。
勇者と呼ばれた男には、自分には到底分からない苦しみがあるのだろう。
少し前までなら思考は分からないままで終わっていたはずだ。
だが、今は、分からないままでも良いと思えた。
見える景色が違うのなら、あいつにしか見えないものもある。
自分には自分の役目があり、あいつにはあいつの役目がある。
それで十分だった。
そして
アルトは砦の入口で足を止めていた。
レオとミアは後から追ってくるはずだ。
ノアも一緒にいる。砦までの道には危険はない。
風が変わる。
外を吹き抜けていた風とは違う。
石壁の奥から滲み出るような冷たく湿った空気が、ゆっくりと頬を撫でていく。
病人の咳が聞こえる。
荷台の軋む音が響く。
誰かが名前を呼んでいる。
耳は確かに、そのすべてを捉えていた。
それなのに、それらは次第に遠ざかり、代わりに砦の奥から満ちてくる静寂だけが、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
そこには、まだ誰もいない。
少なくとも、誰の目にもそう見えた。
それでもアルトだけは、その暗闇のさらに奥で、何かが静かに息を潜め、自分を見つめ返していることを疑わなかった。




