『継なぐ』第四節 風下
第四節 風下
アルトが西の斜面へたどり着いた頃には、皆それぞれ違う場所を見つめ、それぞれのやり方で痕跡を追っていた。
ダンは街道から続く足跡を一つずつ確かめながら土の湿り具合や崩れ方を見極め、ノアは倒れた草や折れた枝を丁寧に見比べて周囲を歩いている。ガルドは腕を組んだまま森の奥へ視線を据え、レオは木剣を肩に担ぎながら、静まり返った林を飽きることなく見つめていた。
レオがふと振り返る。
アルトと目が合うと、小さく笑って一度だけ頷き、何事もなかったように再び森へ視線を戻した。
それだけだった。
それだけで十分だった。
アルトは誰にも声を掛けられることなく、その輪へ静かに加わる。
待っていろと言われたことを口にする者はいない。
遅れてきた理由を尋ねる者もいない。
誰も特別扱いをしないまま、一人分だけ空いていた場所へ自然に立つことができた。それが今のアルトには、思っていた以上にありがたかった。
「街道で見た跡と同じだ。」
ダンが立ち上がり、手についた土を静かに払う。
ガルドも足跡へ目を落としたまま、小さく息を吐いた。
「こんな魔物は見たことがねぇ。」
その声には焦りも虚勢もなく、知らないものを知らないと認める率直さだけがあった。
ノアは歩幅や足跡の深さを見比べ終えると、ゆっくりと顔を上げる。
「体格や重さはある程度推測できます。ただ、それだけでは何も断定できません。」
レオが苦笑した。
「結局、分からないってことか。」
「はい。でも、それでいいんです。」
ノアは穏やかに微笑む。
「分からないことを分からないまま残しておくことも、大切な判断です。」
「なるほどな。」
レオは照れくさそうに頭を掻いた。
「俺はすぐ答えを決めたくなる。」
「私もそうでした。」
ノアは少し笑う。
「先生によく叱られました。」
その短いやり取りに、張りつめていた空気がほんの少しだけやわらいだ。
その少し離れた場所では、ミアがしゃがみ込み、丸く磨かれた石を両手で包むように持っていた。
陽の光へかざし、嬉しそうに眺める。
「まるい。」
レオが歩み寄り、一緒になって石を覗き込む。
「ほんとだ。」
ミアは石とレオを見比べ、それから小さく腕を伸ばした。
「いる?」
思いがけない言葉にレオは目を丸くし、それから少し照れたように笑う。
「くれるのか。」
ミアは嬉しそうに頷いた。
「うん。」
レオは石を受け取ると、宝物でもしまうように胸ポケットへ入れた。
「ありがとう。」
その一言だけでミアは満足したらしく、小さく笑って今度は足元の草を指先で揺らし始める。
その何気ないやり取りを眺めているうちに、アルトの表情もわずかにほどけていた。
張りつめた空気の中でも、人はこんなふうに笑い、誰かへ何かを渡し、そのことだけで嬉しくなれる。その当たり前の光景が、不思議なくらい胸に染みた。
谷を渡る風が草を揺らし、梢を鳴らしながら静かに流れていく。
アルトもその風へ耳を澄ませた瞬間、胸の奥で小さな波紋が広がるのを感じた。
何かがおかしい。
そう思った。
理由は分からない。
何かを見たわけでも、音を聞いたわけでもない。
それでも視線は森ではなく、いつの間にか砦の方へ向いていた。
遠い日の記憶が、風に乗るように胸をかすめる。
――世界のほうが、話しかけてくれるの。
リシアの声はそこまでしか思い出せない。
けれど、その続きを思い出せないことよりも、胸のざわめきだけが少しずつ大きくなっていくことの方が気になった。
「アルトさん。」
ノアの静かな声に振り返る。
アルトは砦から目を離さないまま、小さく首を振った。
「……説明はできない。」
短い言葉だったが、その声音には迷いではなく戸惑いが滲んでいた。
ノアは頷くだけで、それ以上は何も尋ねない。
答えを持たない問いほど、人を苦しめるものはないと知っていたからだった。
そのとき、谷の静寂を引き裂くように、砦の方角から鋭い悲鳴が響いた。
アルトが真っ先に顔を上げ、続いてダンが駆け出し、ガルドもほとんど同時にその背を追う。
レオは胸ポケットへ軽く触れてからミアの手を握り、「行こう」とだけ声を掛ける。
「うん。」
ミアは素直に頷き、レオと一緒に走り出した。
アルトも遅れることなく地面を蹴る。
胸の奥で鳴り続けていたざわめきは、もう漠然とした違和感ではなく、確かな危機の予感へと変わっていた。




