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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『継なぐ』第三節 世界の声

第三節 世界の声


 「そこで待ってろ。」


 扉が閉まってからも、その一言だけは部屋のどこかへ残り続けていた。


 砦の中では、薬草を煎じる匂いが静かに漂い、熱に浮かされた病人の咳や寝息が絶え間なく重なっている。誰もが自分にできることを探し、それぞれの役割を黙々と果たしていた。薪をくべる者、水を運ぶ者、汗を拭う者。その忙しさは騒がしいものではなく、命を繋ぐためだけに流れる静かな時間だった。


 その中で、アルトだけが椅子に腰を下ろしたまま動けずにいた。


 ガルドの言葉は正しい。


 危険な場所へ出るべきではない。それは仲間を思えばこその判断であり、責める気持ちなど微塵も含まれていなかったことくらい、自分でも分かっている。


 それでも胸の奥は痛んだ。


 昔の自分なら、待つという選択肢は存在しなかった。


 誰より早く駆け出し、誰より先に剣を抜き、傷つくことを恐れる前に身体が動いていた。あの頃の自分が正しかったのかどうかは、今ではもう分からない。それでも、少なくとも迷いだけはなかった。


 今は違う。


 何をすればいいのかは分かっている。


 分かっているのに、身体だけが、その答えを拒んでいた。


 少し離れた場所では、ノアが病人の脈を診ている。呼吸へ耳を澄まし、熱を確かめ、水を飲ませる。その所作には一つの無駄もなく、それでいて決して急がない。目の前にいる一人だけを静かに見つめ続ける姿は、不思議なほど穏やかだった。


 ふと、ノアが顔を上げる。


 視線がアルトと重なる。


 何も言わない。


 励ますことも、急かすことも、立ち上がらせようとすることもない。


 ただ静かに見つめ、それだけで再び病人へ向き直った。


 その眼差しが、なぜか胸に残る。


 どこかで見たことがあるような気がした。


 理由は思い出せない。


 けれど、自分が答えを出すまで待ってくれる人の目だった。


 そのとき、先ほど熱に浮かされながら「勇者」と呟いた少年が、小さく身じろぎをした。


 閉じたままの瞼が震え、乾いた唇が夢の続きを追うようにかすかに動く。


 「……みんな。」


 それだけだった。


 誰を呼んだのかも、何を伝えようとしたのかも分からない。


 再び静かな寝息だけが部屋へ戻る。


 部屋の反対側では、ミアが空になった木椀を見つめていた。


 しばらく考え込んでいたかと思うと、小さく口を開く。


 「アルト……遺失。」


 レオが振り返る。


 「また難しい言葉だな。」


 ミアは首を傾げ、少しだけ考え込む。


 さらに考える。


 もう一度首を傾げる。


 「分からない。」


 「本人も分からないのか。」


 レオが思わず笑うと、ミアは素直に頷いた。


 「うん。」


 病人の老婆が、そのやり取りを見て優しく笑う。


 「分からないことを分からないと言えるのは、大したものだよ。」


 ミアは意味が分からないまま、ぺこりと頭を下げた。


 その何気ない光景を眺めていたアルトの脳裏へ、不意に遠い日の記憶がよみがえる。


 焚き火の炎が小さく揺れ、その向こうでリシアが穏やかに笑っていた。


 『勇者ってね、人の声だけを聞く人じゃないの。』


 風が草を揺らし、木々が葉を鳴らし、炎が小さく爆ぜる。


 その音へ耳を澄ませながら、リシアは続けた。


 『人も、木も、風も、水も、この世界にあるものはみんな繋がってる。』


 『だから勇者は、世界の声を聞けるの。』


 『聞こうとするんじゃないよ。世界のほうが、話しかけてくれるの。』


 記憶はそこで途切れた。


 アルトはゆっくりと目を開く。


 薬草の匂いが漂う。


 鍋の湯が静かに沸いている。


 病人の寝息が聞こえ、窓から吹き込む風が頬を撫でていく。


 そのどれもが、微かに自分へ語りかけているような気がした。


 かつては、その声が苦しかった。


 世界の痛みまで感じてしまう自分を、何度も呪った。


 それでも、その繋がりは完全には消えていなかったのだと、胸の奥のざわめきが静かに教えてくれる。


 理由は分からない。


 理屈でもない。


 ただ、このまま座っていてはいけないと、その声だけが確かだった。


 アルトはゆっくりと立ち上がる。


 ガルドの「待ってろ」という言葉を裏切るつもりはない。


 それでも今、自分が従うべきものは別にある気がした。


 静かに扉へ歩み寄り、冷たい取っ手へ手を掛けると、小さく息を吐いて外へ踏み出した。

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