表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/68

『継なぐ』第二節 待つ者

第二節 待つ者


 「……勇者。」


 熱に浮かされた少年の声は、夢の続きを追うようにかすれていた。


 その一言は部屋の誰にも届かなかったはずなのに、アルトの胸へだけは静かに落ちてくる。


 返事はできない。


 喉まで言葉は上がるのに、唇は少しも動かなかった。


 ガルドは少年の肩へ布団を掛け直すと、枕元の木椀を持ち上げて口元へ差し出した。


 「ほら、飲め。」


 少年は顔をしかめる。


 「苦い……。」


 「薬だからな。」


 「嫌だ。」


 「知るか。」


 素っ気ない返事だった。


 それでも木椀を持つ手は揺るがず、飲み終えるまで決して離れない。


 少年は苦そうな顔のまま笑い、ガルドも鼻で小さく笑った。


 その短いやり取りだけで、部屋の空気が少し和らぐ。


 ガルドは空になった椀を受け取ると、そのまま部屋を見渡した。


 「火が弱い。薪を足せ。」


 「水も替えておけ。」


 誰も返事はしない。


 言われる前から立ち上がる者もいれば、黙って桶を抱える者もいる。


 命令ではなく、毎日繰り返されてきた暮らしの一部なのだと、それだけで分かった。


 その輪へ、ノアもごく自然に加わっていた。


 病人の脈を診て、呼吸へ耳を澄ませ、額の汗を拭いながら熱を確かめる。その所作には一切の無駄がなく、初めて訪れた場所とは思えないほど落ち着いていた。


 「清潔な布を、お借りできますか。」


 ガルドは振り向きもせず答える。


 「好きに使え。」


 その一言で十分だった。


 盗賊たちは何も聞かず、必要なものを運び始める。


 部屋の隅で横になっていた老婆が、ぼんやりとノアを見つめていた。


 脈を診る指先を追い、病人へ語りかける声を追い、最後に窓を少しだけ開けて風を入れる仕草で目を細める。


 「……あんた。」


 ノアが振り向く。


 老婆は懐かしいものを見るように微笑んだ。


 「先生のところの子だね。」


 ノアは少し驚き、それから静かに頷く。


 「先生をご存じですか。」


 「名前は知らないよ。」


 老婆はゆっくり首を振った。


 「でも、昔ここへ来た。」


 少し咳き込み、息を整える。


 「病を診る前に、人の顔を見る人だった。」


 ノアは窓から吹き込む風へ目を向け、小さく微笑んだ。


 「……先生らしいです。」


 それ以上の言葉はいらなかった。


 アルトはそのやり取りを黙って見つめていた。


 賢者はもうここにはいない。


 それでも教えは残り、人の手から人の手へ受け継がれ、今も誰かを救っている。


 そんな当たり前の景色が、今のアルトには少し遠かった。


 昔の自分なら迷わずその輪へ入り、水を運び、病人を支え、できることを探していただろう。


 何をすればいいのかは、今でも分かっている。


 それなのに、身体だけが動かなかった。


 その頃には、レオもすっかり砦の働き手になっていた。


 桶を運び、薪を割り、足りないものを見つけては黙って動く。


 「レオさん。」


 ノアが顔を上げる。


 「ありがとうございます。」


 レオは照れくさそうに頭を掻いた。


 「俺は言われたことしかできないけどさ。」


 その様子を見ていたミアが、小さく頷く。


 「……適材適所。」


 「また難しい言葉だな。」


 レオが笑う。


 ミアは少しだけ考え込み、真面目な顔で結論を出した。


 「適切。」


 ガルドが思わず吹き出した。


 「面白い嬢ちゃんだな。」


 ミアは真顔のまま一つ頷く。


 「承知。」


 「だから、そういう意味じゃないって。」


 レオが肩を落とすと、病人たちからもほんの小さな笑いが漏れた。


 その笑いは決して大きくはなかったが、張りつめていた部屋の空気をほんの少しだけ軽くした。


 だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。


 砦の外を駆ける足音が近づき、勢いよく扉が開かれる。


 飛び込んできた男は息を切らしたまま、ガルドだけを見て叫んだ。


 「西だ!」


 その一言で十分だった。


 ガルドの表情から笑みが消え、壁へ立て掛けてあった剣を静かに手に取る。


 ダンも立ち上がり、何も言わず腰の剣へ手を添えた。


 レオは反射的に木剣を握る。


 アルトも立ち上がろうとした。


 だが、膝は椅子から離れない。


 ガルドは振り返ることなく、低い声で言う。


 「そこで待ってろ。」


 命令ではなかった。


 仲間を危険へ近づけまいとする者だけが持つ、静かな声音だった。


 そして次の瞬間、砦の外から何かが軋むような低い咆哮が、風に乗ってゆっくりと流れ込んできた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ