『継なぐ』第二節 待つ者
第二節 待つ者
「……勇者。」
熱に浮かされた少年の声は、夢の続きを追うようにかすれていた。
その一言は部屋の誰にも届かなかったはずなのに、アルトの胸へだけは静かに落ちてくる。
返事はできない。
喉まで言葉は上がるのに、唇は少しも動かなかった。
ガルドは少年の肩へ布団を掛け直すと、枕元の木椀を持ち上げて口元へ差し出した。
「ほら、飲め。」
少年は顔をしかめる。
「苦い……。」
「薬だからな。」
「嫌だ。」
「知るか。」
素っ気ない返事だった。
それでも木椀を持つ手は揺るがず、飲み終えるまで決して離れない。
少年は苦そうな顔のまま笑い、ガルドも鼻で小さく笑った。
その短いやり取りだけで、部屋の空気が少し和らぐ。
ガルドは空になった椀を受け取ると、そのまま部屋を見渡した。
「火が弱い。薪を足せ。」
「水も替えておけ。」
誰も返事はしない。
言われる前から立ち上がる者もいれば、黙って桶を抱える者もいる。
命令ではなく、毎日繰り返されてきた暮らしの一部なのだと、それだけで分かった。
その輪へ、ノアもごく自然に加わっていた。
病人の脈を診て、呼吸へ耳を澄ませ、額の汗を拭いながら熱を確かめる。その所作には一切の無駄がなく、初めて訪れた場所とは思えないほど落ち着いていた。
「清潔な布を、お借りできますか。」
ガルドは振り向きもせず答える。
「好きに使え。」
その一言で十分だった。
盗賊たちは何も聞かず、必要なものを運び始める。
部屋の隅で横になっていた老婆が、ぼんやりとノアを見つめていた。
脈を診る指先を追い、病人へ語りかける声を追い、最後に窓を少しだけ開けて風を入れる仕草で目を細める。
「……あんた。」
ノアが振り向く。
老婆は懐かしいものを見るように微笑んだ。
「先生のところの子だね。」
ノアは少し驚き、それから静かに頷く。
「先生をご存じですか。」
「名前は知らないよ。」
老婆はゆっくり首を振った。
「でも、昔ここへ来た。」
少し咳き込み、息を整える。
「病を診る前に、人の顔を見る人だった。」
ノアは窓から吹き込む風へ目を向け、小さく微笑んだ。
「……先生らしいです。」
それ以上の言葉はいらなかった。
アルトはそのやり取りを黙って見つめていた。
賢者はもうここにはいない。
それでも教えは残り、人の手から人の手へ受け継がれ、今も誰かを救っている。
そんな当たり前の景色が、今のアルトには少し遠かった。
昔の自分なら迷わずその輪へ入り、水を運び、病人を支え、できることを探していただろう。
何をすればいいのかは、今でも分かっている。
それなのに、身体だけが動かなかった。
その頃には、レオもすっかり砦の働き手になっていた。
桶を運び、薪を割り、足りないものを見つけては黙って動く。
「レオさん。」
ノアが顔を上げる。
「ありがとうございます。」
レオは照れくさそうに頭を掻いた。
「俺は言われたことしかできないけどさ。」
その様子を見ていたミアが、小さく頷く。
「……適材適所。」
「また難しい言葉だな。」
レオが笑う。
ミアは少しだけ考え込み、真面目な顔で結論を出した。
「適切。」
ガルドが思わず吹き出した。
「面白い嬢ちゃんだな。」
ミアは真顔のまま一つ頷く。
「承知。」
「だから、そういう意味じゃないって。」
レオが肩を落とすと、病人たちからもほんの小さな笑いが漏れた。
その笑いは決して大きくはなかったが、張りつめていた部屋の空気をほんの少しだけ軽くした。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。
砦の外を駆ける足音が近づき、勢いよく扉が開かれる。
飛び込んできた男は息を切らしたまま、ガルドだけを見て叫んだ。
「西だ!」
その一言で十分だった。
ガルドの表情から笑みが消え、壁へ立て掛けてあった剣を静かに手に取る。
ダンも立ち上がり、何も言わず腰の剣へ手を添えた。
レオは反射的に木剣を握る。
アルトも立ち上がろうとした。
だが、膝は椅子から離れない。
ガルドは振り返ることなく、低い声で言う。
「そこで待ってろ。」
命令ではなかった。
仲間を危険へ近づけまいとする者だけが持つ、静かな声音だった。
そして次の瞬間、砦の外から何かが軋むような低い咆哮が、風に乗ってゆっくりと流れ込んできた。




