『継なぐ』第一節 火の残る場所
第一節 火の残る場所
砦の中へ足を踏み入れると、湿った薬草の匂いが静かに鼻を満たした。
焚き火の煙ではない。何種類もの薬草を煎じた青い香りが部屋に漂い、その奥では苦しげな咳や熱に浮かされた寝言が途切れることなく続いている。壁際には粗末な寝台が並び、そこへ横たわるのは老人だけではなかった。若い男もいれば、幼い子を抱いた母親もいる。額の布を替える者、水を飲ませる者、眠れぬ者の手を黙って握る者──盗賊の砦であるはずなのに、そこに満ちていたのは人を生かそうとする気配だった。
アルトは、その光景から目を離せなかった。
怒号はない。
酒の匂いもない。
聞こえてくるのは、誰かの命を繋ぎ止めようとする静かな息遣いだけだった。
「水だ。」
ガルドが桶を受け取ると、病人の肩を乱暴に起こし、木椀を口元へ運ぶ。
「飲め。」
病人は顔をしかめた。
「……苦ぇ。」
「知るか。」
ぶっきらぼうに言い返しながらも、木椀を持つ手だけは驚くほど慎重だった。
病人は少しだけ笑う。
その笑顔を見て、ガルドも鼻で小さく笑った。
それは仲間同士だからこそ交わせる、ごく短い安堵だった。
その間に、ノアは静かに病人の傍らへ膝をついていた。
脈を診て、呼吸を確かめ、瞳を見て、額へ手を当てる。一つひとつの所作は無駄がなく、それでいて急ぐ様子もない。目の前の命を前にすれば何を優先すべきか、その身体が知っているようだった。
「清潔な布を、お借りできますか。」
ガルドは何も尋ねず、近くの男へ顎をしゃくる。
「持ってこい。」
男は黙って頷き、すぐに布を持って戻ってきた。
誰もノアへ素性を尋ねない。
その手つきを見れば、それだけで十分だった。
部屋の隅で横になっていた老婆が、ぼんやりとノアを見つめている。
視線は脈を診る指先を追い、病人へ語りかける声を追い、窓を少しだけ開けて空気を入れ替える仕草で止まった。
「……あんた。」
掠れた声だった。
ノアは静かに振り向く。
老婆は目を細め、懐かしい人を思い出すように微笑んだ。
「先生のところの子かい。」
ノアは一瞬だけ驚き、それから静かに頷いた。
「先生をご存じですか。」
「名前は知らないよ。」
老婆はゆっくり首を振る。
「でも、昔ここへ来た。」
少し息を整え、遠い日を見つめるように続ける。
「病を診る前に、人を診る人だった。」
ノアは何も答えなかった。
窓から差し込む風へ目を向け、小さく微笑む。
「……先生らしいです。」
その一言だけで十分だった。
アルトは二人のやり取りを見つめていた。
賢者はこの砦へ来たことがある。
人を救い、その姿は誰かの記憶へ残り、教えは弟子へ受け継がれている。
人は、そうやって誰かと繋がっていく。
世界は、そうやって少しずつ続いていく。
昔の自分なら、その輪の中へ何の迷いもなく入っていただろう。
水を運び、病人を支え、できることを探して歩き回っていたはずだ。
何をすればいいのかは、今でも分かっている。
それでも身体は動かなかった。
心だけが前へ進み、身体だけがその場へ取り残されているようだった。
そのとき、一人の少年が熱に浮かされたまま薄く目を開けた。
焦点の定まらない瞳が、部屋の隅に立つアルトをゆっくりと映す。
乾いた唇が、かすかに動いた。
「……勇者。」
その声は誰にも届かないほど小さかった。
それでもアルトには、誰よりもはっきり聞こえた。
胸の奥で、何かが軋む音がした。




