『紡ぐ』第五節 門
第五節 門
街道を外れると、道は急に細くなった。
荷馬車がようやく通れるほどの幅しかなく、左右から伸びた枝が幌を掠めるたび、乾いた葉擦れの音が谷へ溶けていく。岩肌は少しずつ迫り、木々は陽の光を細く切り分け、風だけが変わらず谷を吹き抜けていた。
アルトは荷馬車の後ろを歩きながら、胸の奥のざわめきを持て余していた。
恐怖ではない。
懐かしさでもない。
それは形を持たない違和感だった。
歩みを進めるほど、その輪郭だけが静かに濃くなっていく。
レオは木剣を肩に担ぎ、落ち着かない様子で辺りを見回している。
ノアは崖や木々へ何度も視線を移し、その変化を確かめるように歩いていた。
ミアだけは空を見ていた。
風を見ているようにも見えた。
やがて木立が途切れる。
谷の岩肌へ寄り添うように、小さな砦が姿を現した。
石を積み上げた簡素な砦だった。
豪壮さはない。
それでも街道を見渡すには十分な場所に築かれ、人の営みを守るために生まれた建物であることが、長い年月を経た石壁から静かに伝わってきた。
だが、そこには人の気配がなかった。
見張り台は空のまま。
門は半ば開き、焚き火の煙も見えない。
風だけが古びた柱を鳴らしている。
「……静か。」
ミアが呟く。
レオも砦を見上げた。
「盗賊って、もっと騒がしいと思ってた。」
ミアは少し考え、砦と空を見比べてから、小さく頷いた。
「休業。」
レオが吹き出す。
「盗賊にも休日があるの?」
ミアは真面目な顔で考え込む。
「……労働環境。」
「違う、そういう話じゃない。」
レオは苦笑しながら首を振った。
ノアは砦から目を離さないまま、小さく呟く。
「でも、この静けさは普通ではありません。」
笑いはそこで終わった。
ダンは荷馬車を止めると、砦を見つめたまま長く黙っていた。
「知ってる場所なの?」
レオが尋ねる。
「ああ。」
ダンは静かに頷く。
「昔は、もっと人の声がした。」
その一言だけで十分だった。
今の静けさが、どれほど異様なのか誰にでも分かった。
ダンは荷馬車を降り、門へ向かって歩き出す。
アルトもその後に続いた。
門柱へ近づくと、石壁には無数の傷が残っているのが見えた。
剣ではない。
獣とも違う。
何か巨大なものが、石を引き裂くように抉った跡だった。
アルトは思わず立ち止まる。
胸のざわめきが、不意に痛みへ変わる。
理由は分からない。
それでも、その傷から目を離すことができなかった。
ダンは門の前で足を止め、砦の奥へ声を掛ける。
「いるか。」
返事はない。
風だけが門を抜け、乾いた音を残して通り過ぎる。
もう一度声を掛けようとした、そのときだった。
砦の奥で、重い扉が軋んだ。
ゆっくりと足音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
やがて暗がりから、一人の男が姿を現した。
無精ひげを伸ばし、肩には剣を下げている。
疲れ切った顔だった。
それでも目だけは鋭く、一行を静かに見渡していた。
最後にダンを見る。
「……珍しいな。」
ダンは頷き返す。
「街道で、見慣れない魔物の跡を見た。」
男の表情は変わらなかった。
驚きもしない。
ただ、小さく息を吐く。
「遅かったか。」
その一言で、砦の空気が変わった。
男はすぐに身を翻し、低く言う。
「急げ。」
「もう保たない。」
その瞬間、砦の奥から人とも獣ともつかない、押し殺したような呻き声が響いた。
レオの手が反射的に木剣を握る。
ノアは息を呑む。
ミアだけが小さく首を傾げた。
「……要観察。」
アルトは無意識に一歩踏み出していた。
胸のざわめきは、もう予感ではない。
何かが、自分を待っている。




