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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『紡ぐ』第四節 違和感

第四節 違和感


 笑い声が谷へ溶けると、風だけが残った。


 風は変わらず谷を渡り、草を揺らし、荷馬車は乾いた音を立てながら街道を進んでいく。景色は少し前と何一つ変わらない。それなのに、アルトの胸の奥では、理由のないざわめきだけが静かに広がっていた。


 足が止まる。


 考えるより先に身体が止まっていた。


 耳を澄ますと、風の音は聞こえる。車輪の軋みも、馬の鼻息も聞こえる。だが、それ以外が聞こえない。


 鳥の声だった。


 谷へ入ってから、一羽も鳴いていない。


 「どうした。」


 ダンが歩調を緩める。


 アルトは谷の奥を見つめたまま、小さく首を振った。


 「分からない。でも……何かいる。」


 自分でも、その言葉がどこから出てきたのか分からなかった。


 ダンはそれ以上尋ねず、街道へしゃがみ込むと、轍の脇に残った跡へ静かに指を這わせた。深く抉れた爪痕、見慣れない足跡――土はまだ新しく、風雨に削られた形跡もない。


 ノアも隣へしゃがみ込み、しばらく黙って跡を見つめていた。


 「文献では見た記憶があります。ただ、この地方で確認された記録はありません。」


 ダンは短く頷く。


 「俺も知らん。」


 それだけで十分だった。


 レオは無意識に木剣を握る。握れば少しだけ落ち着くことを、旅の中で覚えていた。


 「戻る?」


 誰へ向けた言葉でもなかった。


 ダンは答えない。


 谷を見渡し、荷馬車へ目を移し、娘の顔を確かめる。そして、もう一度谷の奥へ視線を戻した。


 アルトは、その短い沈黙を見つめていた。


 迷っている。


 初めて見るダンの横顔だった。


 やがてダンは、静かに息を吐く。


 「……砦へ寄る。」


 レオが不思議そうに顔を上げた。


 「砦?」


 「ああ。」


 ダンは頷く。


 「盗賊の砦だ。」


 一瞬、空気が張り詰めた。


 レオは思わず木剣を握り直す。


 「盗賊?」


 その横で、ミアだけが目を輝かせる。


 「かっこいい。」


 「いや、全然かっこよくない!」


 レオが慌てて否定する。


 「盗賊だぞ?」


 ミアは真面目な顔で少し考えた。


 「……反社会的。」


 ダンの口元が、ほんのわずかに緩む。


 「そのとおりだ。」


 笑みはすぐに消えた。


 「だから普段なら近づかん。」


 そう言って谷の奥へ目を向ける。


 「次の町まではまだ半日ある。本来なら今夜は野営だ。だが、この魔物が街道へ出ているなら、野営は危険すぎる。」


 荷馬車へ手を置き、娘の姿を見てから静かに続ける。


 「守るなら、先に危険を知る。」


 その言葉は誰かを説得するためではなく、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。


 ダンは手綱を握り直す。


 「盗賊は人間だ。話はできる。」


 荷馬車はゆっくりと街道を外れ、草に隠れた細い道へ向きを変えた。


 谷には再び風が流れ始める。


 景色は何一つ変わらない。


 それでもアルトは、その静けさの奥で何かが自分たちを待っていることだけは、理由もなく確信していた。

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