『紡ぐ』第三節 道
第三節 道
谷へ沿って延びる街道は、人が切り開いたというより、長い年月をかけて荷馬車が踏み固めた道だった。
車輪は乾いた土をゆっくりと踏み、轍へ小さな石を落としながら進んでいく。風は谷を抜け、草を揺らし、その音だけを遠くへ運んでいた。
ダンは手綱を軽く握ったまま、馬の歩幅に合わせて歩く。
空を見上げ、雲の流れを確かめ、また前を見る。
旅を続けるうちに見るものは少なくなった。
その代わり、見落とすものも少なくなった。
荷台では娘が帳面を膝へ広げ、積み荷を静かに見渡している。縄の緩みを直し、箱の向きを戻すと、小さく何かを書き留めた。
父も娘も、それぞれの仕事を知っていた。
レオは荷馬車の横を歩きながら、木剣の柄へそっと手を添える。
父から譲られた木剣だった。
朝になれば振り、夜になれば布で拭く。
その繰り返しだけは、旅へ出ても変わらない。
少し前では、ノアが谷を眺めていた。
崖を見て、木々を見て、川を見て、また崖を見る。
「何を見てるの?」
レオが尋ねる。
「変わったもの。」
「見つかった?」
「まだ。」
ノアは少し考えた。
「でも、ある。」
「分かる?」
「分からない。」
レオは笑う。
「分からないものを探してる?」
「そう。」
ノアは真面目に頷いた。
「分かるものは、本で読める。」
レオは困ったように笑い返した。
「やっぱりノアは変わってるな。」
その少し後ろで、ミアが立ち止まる。
谷の奥を見つめたまま、小さく首を傾げた。
アルトが振り返る。
「どうした?」
ミアはしばらく黙っていた。
それから、小さく言う。
ミアは谷の奥をじっと見つめていた。
「どうした?」
アルトが声を掛ける。
ミアは首を傾げる。
「……乱視。」
レオが吹き出した。
「乱視?」
ミアは真剣な顔で頷く。
「ぐるぐる。」
「それ、乱視じゃないだろ。」
「そう?」
今度はミアが首を傾げる。
しばらく考え込み、空を見上げた。
「じゃあ……。」
少し間を置く。
「負薪之憂。」
レオは立ち止まる。
「……何それ。」
「疲れやすし。」
「絶対違う。」
レオは笑った。
ノアは珍しく眉を寄せる。
「……知らない。」
「ノアでも?」
「初めて聞いた。」
ミアは満足そうに頷く。
「適切。」
「適切じゃないって。」
レオが頭を掻きながら笑う。
ミアもつられて小さく笑った。
その笑い声が谷へ消えていく。
その答えがあまりに素直で、アルトは思わず口元を緩める。
笑ったのは、本当に久しぶりだった。
その小さな笑みは誰にも気づかれず、谷を渡る風と一緒に消えていく。
ダンは前を見たまま、手綱を少しだけ引いた。
「この先は道が狭くなる。」
その一言だけで、一行は自然と歩幅を揃える。
谷へ吹いていた風が、不意に止んだ。
鳥の声も聞こえない。
静けさだけが道の先に残り、荷馬車は軋みながら、その静けさの中へゆっくりと入っていった。




