『紡ぐ』第二節 変わらない朝
第一節 変わらない朝
谷を越えた向こうでは、朝は少し遅れて始まる。
岩肌に築かれた砦は陽を受けるのが遅く、石壁には夜の冷たさが残っていた。見張りを終えた男が階段を下りると、入れ替わるように別の男が持ち場へ向かう。互いに声を掛ける者はいない。それでも誰一人、それを不自然だとは思っていなかった。
ガルドは桶の水で顔を洗い、濡れた手を服で拭いながら部屋へ戻る。
老婆は壁にもたれ、穏やかな寝息を立てていた。昨日まで耳についた咳はほとんど聞こえず、足元には飲みかけの薬袋が置かれている。
薬は足りた。
医者の見立てどおりなら、このまま良くなるだろう。
それで十分だった。
その先まで望むことは、この砦ではあまり意味を持たない。
薬が尽きれば、また町へ向かう。
金が足りなければ、また奪う。
薪を割り、鍋を囲み、剣を研ぎ、日が暮れれば眠る。昨日を越えて今日を迎え、今日を越えて明日を迎える。その繰り返しの中へ、自分の一日を重ねていく。それが砦で生きるということだった。
ガルドも長いあいだ、その暮らしを疑ったことはない。
だから今朝も、剣を腰へ差し、外へ出るだけのはずだった。
部屋を出ようとして、ふと足が止まる。
何かを忘れたわけではない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
ガルドは振り返る。
老婆は静かに眠っていた。
その姿を確かめると、小さく息をついて部屋を出る。
入口では、バルクがすでに待っていた。
「行くぞ。」
「ああ。」
それだけ言葉を交わし、二人は並んで砦を後にする。
朝日はようやく石壁を照らし始め、谷へ続く道にも少しずつ光が落ちていく。
山は昨日と変わらず、風も昨日と変わらない。
ガルドは歩きながら、一度だけ谷の方へ目を向けた。
何を見ようとしたのか、自分でも分からないまま、その視線はすぐ前へ戻った。




