『交差』 第一節 視線
ふとした日常
物語はほんの少しづつ進んでいきます
そして、その静かな日常のすぐ底に、小さな違和感が
視線
第一節
宿を出ると、朝の空気にはまだ夜の冷たさが残っていた。
雨は上がっている。
軒先から落ちる雫が石畳を濡らし、その上を人々が忙しなく行き交っていた。戸を開ける音、荷を下ろす音、誰かを呼ぶ声。町はもう起きていたが、一日の勢いを得るにはまだ少し早い時間だった。
レオは通りへ出るなり足を止めた。
向かいのパン屋では、主人が焼き上がったばかりの籠へ布を掛けている。湯気は布の隙間から逃げ出し、通りを横切っていった。
「焼けた?」
レオが聞く。
主人は手を止めずに答えた。
「見りゃ分かる。」
「食える?」
「金があればな。」
レオは真顔で頷く。
「ない。」
主人が吹き出した。
笑いながら布の端を少しだけ持ち上げる。
並んだパンはどれも丸く、表面には綺麗な焼き色がついていた。
レオはしばらく眺めていたが、やがて満足したように頷く。
「後で来る。」
「残ってりゃな。」
そのやり取りの間にも町は動いていた。
隣の八百屋では木箱が一つずつ店先へ運ばれ、荷車の御者は行き場を探すように辺りを見回している。魚屋は桶の水を流し、その音に驚いた鳩が屋根へ飛び上がった。
レオはようやく歩き出した。
ノアはその少し前を歩いている。
立ち止まらない。
急ぎもしない。
人の流れが細くなる場所では自然と横へずれ、荷車が来れば先に道を譲る。
「書かないのか。」
アルトが聞いた。
「まだ。」
ノアは前を向いたまま答える。
「歩いてるから。」
それだけだった。
何を書き、何を書かないのか。
ノアなりの基準があるらしかった。
ダンは二人の後ろを歩いていた。
向こうから老人が来る。
互いに歩幅は変わらない。
すれ違う直前、老人が帽子へ手を添えた。
ダンは軽く頷く。
言葉はない。
老人も振り返らない。
けれど、それで十分なのだろうと思わせるものがあった。
ミアは少し離れた場所でしゃがみ込んでいた。
石畳の隙間から伸びた草を見ている。
草は細く、踏まれれば簡単に折れてしまいそうだったが、昨夜の雨を受けて小さな雫を抱えていた。
風が吹く。
草が揺れる。
雫が落ちる。
ミアはそれを見届けてから立ち上がった。
「何見てた。」
レオが振り返る。
「草。」
「面白いか。」
「うん。」
レオは少し考えた。
それから首を振る。
「分かんね。」
ミアは笑う。
レオも笑う。
それで話は終わった。
市場へ続く通りは、人が増えるにつれて少しずつ形を変えていった。
肉屋の前では客が立ち止まり、桶を抱えた男はその脇を抜ける場所を探している。道端では旅人らしい二人組が地図を広げ、店の女将は箒を動かしながらそれを横目で見ていた。
誰も同じことをしていない。
それぞれが自分の朝を始めている。
その動きが重なり合い、町は少しずつ速度を上げていく。
アルトは歩きながら、その流れを眺めていた。
旅に出てから幾つもの町を通った。
大きな町もあった。
小さな村もあった。
この町も、その一つに過ぎない。
そう考えているはずなのに、視線は時折、人波の向こうへ伸びていく。
市場へ向かう者。
市場から戻る者。
荷を運ぶ者。
立ち話をする者。
視線はその間を抜け、何かを探すように動いた。
何を見ているのか、自分でも分からない。
ただ、目だけが人の流れを追っていた。
やがて市場の喧騒が近づいてくる。
肉を売る声に混じって鉄を打つ音が響き、どこかでは子どもたちが走り回っているらしい。人の数も目に見えて増え、通りの先には色とりどりの天幕が並び始めていた。
レオが振り返る。
「市場だ。」
声は弾んでいた。
返事を待たずに駆け出していく。
ノアは小さく肩を竦める。
ダンは何も言わない。
ミアはその後を追うように歩き出した。
アルトも歩く。
市場の入口はもう目の前だった。




