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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『継ぎ目』第三節 後半 残る

第三節 残る


後半


小屋の中には、まだ誰も言葉を続けようとしない時間が残っていた。


雨は上がっている。それでも屋根の端からは、忘れたように雫が落ちる。木の葉に溜まっていた水が一つ、また一つと遅れて地面を叩く。その音だけが、誰かの息づかいよりも静かに小屋の中へ入り込んでいた。


最初に動いたのはダンだった。木片を削った刃物を布へ包み、麻紐の切れ端を拾い集め、床に散った削り屑を靴先で隅へ寄せる。壊れたものを直すことは、この男にとって特別な出来事ではないらしかった。朝になれば荷馬車を見て、夕方になれば火を起こす。そのどちらとも変わらない手つきで、修理は終わっていた。


「行こう」


それだけ言った。


急かす声ではなかった。雨が止んだ。道が見える。車輪が回る。だから旅を続ける。その順番を、ただ確かめるような声だった。


ルナは毛布を畳み、ノアは手帳を鞄へしまった。鞄の留め具を閉じたあと、彼女は一度だけその上から手を置いた。書いたものが逃げるわけではない。それでも、そうせずにはいられなかった。


ミアは小屋の外へ出て、小さく背伸びをした。金色の髪はまだ湿っていて、いつも跳ねている一本も、今日は少しだけ大人しかった。彼女は濡れた空気を吸い込み、空を見上げて目を細める。


「青になりそう」


アルトも空を見た。まだ青ではない。灰色でもない。雨を抱えた雲が少しずつほどけ、光がその隙間を探している。空はまだ、自分の色を決めかねているようだった。


レオは立ち上がった。


木剣を腰へ差そうとして、手を止める。柄を少し傾け、革紐の位置を変え、もう一度試す。白い麻紐のわずかな膨らみが、どうしても引っかかった。無理をすれば差せる。昨日までと同じ場所へ、昨日までと同じように収めることはできるのかもしれない。


けれど、レオは三度目を試さなかった。


木剣を胸へ抱える。


自分でも少し大げさだと思った。刃もない。ただの木だ。傷ついて、縛られて、前より不格好になった木剣だ。それなのに、荷へ預けることも、腰へ無理に差すことも、どうしてもできなかった。


ミアが横から覗き込む。


「持ち方、変更」


「……そうだな」


「採用?」


レオは少しだけ笑った。


「保留」


「慎重」


「うるさい」


ミアは満足そうに頷き、それ以上は何も聞かなかった。


荷馬車がゆっくりと動き出す。濡れた車輪が柔らかな土へ沈み、新しい轍を刻んでいく。昨日までの轍の上を通るのに、まったく同じ場所はなぞらない。少しだけずれ、少しだけ深くなり、それでも道は一つの線になって続いていく。


アルトは荷馬車の後ろを歩きながら、その轍を見ていた。


小屋は少しずつ遠ざかっていく。屋根の端から最後の雫が落ち、誰もいなくなった地面に小さな輪を作った。そこには、白い麻紐の切れ端と、細かな木屑と、誰かが膝をついた跡だけが残っていた。


昔の旅では、こういう場所を振り返ることはなかった。


振り返れば、そこに置いていかなければならなかったものまで見えてしまうからだった。


今は、少しだけ振り返ることができた。


それが前へ進むことと同じなのか、違うのか、アルトにはまだ分からなかった。分からないまま、歩いた。濡れた土の匂いがする。車輪の音がする。レオが木剣を抱え直す、小さな衣擦れがする。


ノアはその音を聞いていた。


手帳はもう鞄の中にある。書こうと思えば、あとで書けるかもしれない。レオが木剣を抱えて歩いたこと。ミアが「持ち方、変更」と言ったこと。アルトが小屋を振り返ったこと。どれも出来事としては、たぶん書ける。


けれど、今はまだ書かなくてよかった。


書かないまま残るものがある。


それを、ノアは少しだけ信じてみようと思った。


街道は山の斜面に沿って緩く曲がり、やがて谷から離れていく。雨上がりの風が、草の匂いを運んできた。その風は荷馬車の幌を揺らし、レオの腕の中の木剣にも、ほんの一瞬だけ触れて通り過ぎた。


山の向こうでも、同じ風が吹いていた。

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