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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『継ぎ目』第三節 前編 残す 

第三節 前編 残す




ノアは、手帳を開いたまま眠っていた。


眠ったというより、雨の音を聞いているうちに、意識の方が先にどこかへ行ってしまったのだろう。膝の上のページには、昨夜書いた二つの短い文が残っていた。


『落とした。』


その下に、少し乱れた字で、


『拾えなかった。』


鉛筆は床へ転がっていた。先は折れていない。ただ、湿った土が少しだけ付いている。ノアはそれを拾おうとして、途中で手を止めた。昨日の谷で見たものが、また一瞬だけ戻ってきたからだった。矢の角度、アルトの剣、レオの声、地面へ落ちた鉛筆。そのどれもが事実としては整理できるのに、並べれば並べるほど、肝心なものだけが遠ざかっていく。


彼女は鉛筆を拾わず、先に手帳を閉じた。


小屋の外では、雨が弱くなっていた。屋根から落ちる水の音も夜ほど強くない。荷馬車の幌に溜まった水を、ダンが棒で静かに押し流している。昨夜よりもゆっくりだった。ルナが驚かないようにしているのだと、ノアには分かった。


分かった。


そう思ったあとで、ノアは少し困った顔をした。


それは、記録できる種類の「分かった」ではなかった。


レオは小屋の入口に座っていた。木剣を膝の上に置き、裂け目を見ている。白い麻紐で縛られた場所は、傷を隠すどころか、むしろそこに傷があることをはっきり示していた。レオは右手の親指でいつものくぼみを探し、それから裂け目の手前で指を止める。


「貸せ」


ダンが言った。


レオはすぐには渡さなかった。木剣を持つ手に、少しだけ力が入る。焦茶色の髪はまだ乱れていて、目元には眠れなかった夜の影が残っていた。


「折れますか」


「このままなら、いつかはな」


ダンはそう言って、レオの隣に腰を下ろした。


「元に戻りますか」


「戻らん」


返事は早かった。


レオは目を伏せる。


ダンはその顔を見ないまま、荷袋から薄い木片と麻紐を取り出した。小さな刃物で木片の端を削り、裂け目へ当てる。曲がった薬指は細かな作業に向いていない。それでも手つきは静かだった。車輪を直す時と同じようでいて、どこか違っている。これは荷馬車の道具ではなく、少年が手放せずにいるものだった。


「壊れたもんは、元には戻らん」


ダンは木片の角を指で確かめながら言った。


「だから、隠すな」


レオは顔を上げる。


「隠す?」


「傷をなかったことにしようとすると、そこからまた割れる」


ダンは裂け目に木片を沿わせ、麻紐を濡らして締めていく。強く巻きすぎれば木が割れる。弱すぎれば支えにならない。力を入れるところと抜くところを、手が先に知っているようだった。


「残しておけ。残したまま、持てるようにする」


レオは何も言わなかった。


小屋の中では、ミアが片方だけ靴を履いて座っている。もう片方は膝の上にあり、彼女はその中へ雨粒が一つ落ちるのを、何かの実験のように見ていた。ダンの言葉が聞こえたのか、彼女は顔を上げる。


「傷、採用」


レオが振り返る。


「採用って何だよ」


「残す」


「お前、分かって言ってるのか」


「概ね」


ミアは真面目に頷いた。


レオは少しだけ笑いそうになり、それを堪えた。笑ってしまえば、木剣の傷まで軽くなってしまうような気がしたのかもしれない。


ノアはその会話を聞いていた。拾わないままだった鉛筆へ手を伸ばし、今度は拾う。湿った土を指で払う。書こうと思えば書ける。ダンの言葉も、レオの表情も、ミアの妙な言葉も、全部書けるはずだった。


それでも、手帳は開かなかった。


ダンは最後の結び目を作った。余った麻紐を短く切ると、木剣を両手で持ち、軽く重さを確かめる。裂け目は消えていない。白い麻紐はむしろその場所を強調している。それでも、木剣はさっきより静かに見えた。


「振るな」


ダンは言った。


レオは驚いた顔をする。


「え?」


「今日は振るな。持っていろ」


「持つだけですか」


「ああ」


ダンは木剣を返す。


「持ち方が変わる」


レオは木剣を受け取った。


右手の親指が、いつものくぼみに戻る。そこへ麻紐のわずかな膨らみが加わり、今までとは違う感触が手の中に生まれた。レオは眉を寄せる。木剣を直してもらったのに、どこか前より扱いにくい。


「変です」


「そうだろうな」


「直したのに」


「直したからだ」


ダンは立ち上がり、濡れた小屋の外を見た。


雨は、もうほとんど止んでいる。


アルトはそのやり取りを少し離れた場所で見ていた。木剣を修理するダンの手、傷を見ないようにして結局見てしまうレオの目、意味を知っているのか知らないのか分からないミアの言葉、そして手帳を開かないノア。そのどれもが、小さなことだった。小さすぎて、普通なら通り過ぎてしまうようなことだった。


それなのに、胸のどこかへ残った。


昔、リシアが似たようなことを言った気がする。


焚き火の前だった。魔王討伐の旅がまだ始まったばかりで、アルトは聖剣をどう扱えばいいのかもよく分かっていなかった。毎晩、刃を拭き、鞘を確かめ、握り直しては、自分の手ではないものを持っているような気分になっていた。


リシアはその様子を見て、ふと笑った。


「剣は毎日触りなさい」


「錆びるから?」


「違う」


彼女はそう言って、それ以上を言わなかった。


アルトも聞かなかった。


その頃の自分は、聞くべきことと聞かなくてもいいことの区別がついているつもりだった。実際には、何も分かっていなかったのだと、今になって思う。


小屋の外から、雨上がりの匂いが流れ込んでくる。


濡れた土、古い石、湿った木。そういうものの匂いが混じった空気の中で、レオは木剣を抱えたまま黙って座っていた。


ノアはようやく手帳を開いた。


前のページに書かれた『拾えなかった』という文字をしばらく見てから、次の行に鉛筆を置く。何を書くべきか分からなかった。ダンの言葉を書けば、意味を分かったことになる気がした。レオの木剣を書けば、木剣だけの話になってしまう気がした。ミアの「採用」を書けば、それはそれで妙に正しい気もした。


結局、ノアは一行だけ書いた。


『残す。』


その文字を見て、しばらく動かなかった。


消さなかった。

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