『継ぎ目』第二節 書けないもの
第二節 書けないもの
雨は、昼を過ぎても止まなかった。
小屋の屋根から落ちる水は、最初は細い糸のようだったが、時間が経つにつれて太くなり、地面にいくつもの小さな穴を作っていった。荷馬車の幌にも雨粒が溜まり、ダンが時々棒で内側から押し上げると、外へまとまって流れ落ちた。
その音がするたび、ルナは少しだけ肩を震わせた。
ダンは気づいていたが、何も言わなかった。ただ、次に幌を押し上げる時には、少しだけゆっくりやった。水は前より静かに流れ落ちる。ルナは膝を抱えたまま、父の背中を見ていた。
ノアは小屋の壁際に座っていた。
手帳は膝の上にある。雨が届かない場所を選んだはずなのに、湿気は紙の端をわずかに反らせていた。ノアはそれを親指で押さえ、しばらく白いページを見つめていた。
書くことは、いくらでもあった。
襲撃者は少なくとも七人。谷の上に弓が二、下へ降りた者が三、荷へ向かった者が一、指示を出していた者が一。武器は統一されていない。手入れも悪い。けれど動きは素人ではなかった。奪われたのは薬草の袋だけで、食料も金貨も残された。
事実は並べられる。
しかし、それを書いたところで、谷で起きたことには届かない気がした。
ノアは鉛筆を置く。
また持つ。
紙へ先を当てる。
そのまま止まる。
アルトは小屋の入口近くに座っていた。雨の向こうを見ている。何かを見ているようで、何も見ていないようにも見えた。黒髪はまだ少し濡れていて、灰色がかった瞳の上に前髪が落ちている。
ノアは、彼が聖剣を抜いた瞬間を思い出す。
抜いた、というより、手の中にあった。
矢を弾く角度は正確だった。余分な力はなかった。けれど、それをしていた本人だけが、自分の動きについていけていないように見えた。普通なら、そこに名前をつける。反射。習熟。戦闘経験。身体記憶。
どれも正しい。
どれも足りない。
鉛筆の先が紙に触れた。
『落とした。』
ノアは一行だけ書いた。
矢を見た。
盗賊を見た。
アルトを見た。
それなのに、自分は鉛筆を落とした。
それ以上は書けなかった。
「それだけか」
声がした。
レオだった。
彼は木剣を抱えたまま、いつの間にか近くへ来ていた。麻紐で縛られた木剣は、彼の腕の中で少し大きく見える。いや、レオがまだその大きさに追いついていないのかもしれない。
ノアは手帳を閉じようとして、やめた。
「はい」
「いつもなら、もっと書くのに」
「いつもなら、書けます」
「今日は?」
「分かりません」
レオは少しだけ眉を寄せた。
「ノアでも分からないことあるんだな」
責める声ではなかった。
驚いているだけだった。
ノアは返事に迷う。分からないことはたくさんある。けれど、それを言うとレオはまた別の顔をする気がした。彼はときどき、ノアを自分よりずっと遠くにいる人間のように見る。それが少し居心地悪い。
「あります」
ノアは言った。
「たくさん」
レオは木剣を抱え直す。
「俺は、分からないことばっかりだ」
「知っています」
「そこは否定しろよ」
ノアは少し考えた。
「却下します」
レオは一瞬だけぽかんとして、それから小さく笑った。ミアの言葉ではない。けれど、どこか似ていた。
笑い声に気づいたミアが、少し離れた場所からこちらを見る。
「なに」
「何でもない」
レオが答える。
「重要?」
「重要じゃない」
ミアは頷く。
「なら不問とする」
「また変な言葉使ってる」
「適切」
ミアはそう言うと、ルナの隣へ戻った。
ノアはそのやり取りを見て、初めてほんの少しだけ肩の力を抜いた。白いページには、まだ一行しか書かれていない。けれど、その一行を消す気にはならなかった。
落とした。
それは失敗の記録だった。
同時に、自分が見ているだけではいられなかったことの記録でもあった。
ノアはそのことを、まだ言葉にしなかった。
小屋の外で、雨が少し弱くなった。
ダンは荷台の奥から革袋を取り出し、中身を確かめていた。残っている薬草はほとんどない。細かい乾燥葉が底に少し。熱冷ましには足りない。怪我の手当てにも心細い。
アルトはその横に立った。
「町まで、どれくらいですか」
「雨が止めば半日。止まなければ一日」
「薬は買えますか」
「町にあればな」
ダンは革袋を閉じた。
「なければ?」
「探す」
「それでもなければ?」
ダンは答えなかった。
小屋の中では、レオが木剣を抱え、ミアがルナの髪についた枯れ葉を取っている。ノアは手帳を膝に置き、白いページを見つめている。
誰も薬草の袋の話をしない。
けれど、その袋がなくなった場所だけが、荷台の奥で妙に広く見えた。
「ガルドは」
アルトが言う。
ダンの手が止まる。
「薬を持っていった」
「ああ」
「それを必要としている人がいるんですね」
ダンは雨の向こうを見た。
「いるんだろうな」
その声は低かった。
怒りだけではなかった。
だから余計に重かった。
「追わないんですか」
「今は追わない」
「今は」
ダンはアルトを見る。
その目は、昨夜までの商人の目ではなかった。戦場で何度も道を選んできた人間の目だった。
「会うことになる」
それだけだった。
理由は言わなかった。
雨は弱まり、屋根から落ちる水音も細くなっていく。外の土はぬかるみ、小屋の前には浅い水たまりができていた。その水面に、荷馬車の車輪が歪んで映っている。
アルトはその水面を見た。
朝の沢に映った自分の顔を思い出す。
風が吹けば、顔は消えた。
けれど、そこに映っていたことまでは消えない。
ダンは荷台へ戻り、切れた縄を結び直した。奪われた袋は戻らない。それでも結び直す。曲がった薬指が少しだけ不器用に動き、最後の結び目だけを強く締めた。
その音を、ノアは聞いていた。
彼女は手帳を開く。
『落とした。』
その下に、もう一行だけ書いた。
『拾わなかった。』
それから、少し考えて線を引いた。
違う。
拾えなかった。
ノアはその言葉を見つめたまま、長い時間、鉛筆を動かさなかった。




