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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『継ぎ目』第一節 雨の小屋

継ぎ目


第一節 雨の小屋


雨は、谷を抜けたあとで降り始めた。


最初は、草の先がわずかに濡れる程度だった。けれど山の雨は、いつも遠慮がない。空のどこかで誰かが水瓶を傾けたように、細い粒はすぐに太くなり、道の土を黒く変えていった。


荷馬車は古い小屋の前で止まった。


道端に残された石造りの休憩所だった。屋根は半分ほど残っているが、壁の一部は崩れ、床には風で運ばれた枯れ葉が溜まっている。旅人が使った跡はあった。焦げた石。折れた木片。誰かが忘れていった縄の切れ端。そういうものだけが、ここにかつて人が雨を避けたことを覚えていた。


ダンは馬を小屋の脇へ寄せ、濡れないよう布を掛けた。それから荷台の中を確認する。薬草の袋があった場所には、切れた縄だけが残っていた。


誰もその場所を見なかった。


見れば、そこにないことがもっと確かになってしまう。


ルナは荷台の奥で膝を抱えている。泣いてはいなかったが、目の周りは少し赤かった。ダンはその頭に手を置いた。曲がった薬指が、濡れた髪をぎこちなく撫でる。ルナは何も言わず、その手に少しだけ頬を寄せた。


レオは小屋の隅に座っていた。


膝の上には木剣がある。谷で受けた傷は、雨の薄暗さの中でもはっきり見えた。裂け目は木目に沿って深く入り、手で触れれば、そこから簡単に開いてしまいそうだった。


レオは何度も指を伸ばしかけ、そのたびに止めた。


触れたいのに、触れるのが怖い。傷を見ることと、傷を確かめることは違う。見るだけなら、まだ元に戻るかもしれないと思える。けれど触ってしまえば、そこに裂け目があることを指が覚えてしまう。


ミアが隣へ座る。


金色の髪は雨気を含んで少し重くなり、いつも跳ねている一本も今日は大人しく額の上に伏せていた。彼女は木剣を見つめ、それからレオの手を見る。


「包帯」


レオは顔を上げる。


「え?」


「木剣、包帯いる」


「木だぞ」


「知ってる」


ミアは真面目な顔で頷く。


「でも、痛そう」


レオは何か言おうとして、やめた。


雨が屋根を叩く音が強くなる。小屋の隅から、水が一筋落ちていた。ぽたり、ぽたり、と同じ場所に落ち続け、そこだけ土が小さくくぼんでいる。


ダンは荷袋から麻紐と薄い木片を取り出した。


「貸せ」


レオはすぐには渡さなかった。


木剣を握る右手の親指の付け根には、硬くなった皮がある。何度も握り、何度も振り、何度も失敗した場所だった。その親指が、柄のくぼみに収まったまま動かない。


ダンは急かさなかった。


しばらくして、レオは木剣を差し出した。


ダンは受け取ると、膝の上に置き、裂け目を確かめた。折れてはいない。だが、無理をすれば次で割れる。彼は曲がった薬指で木目をなぞり、裂けた部分に薄い木片を当てた。


「元には戻らん」


レオの肩が少しだけ落ちる。


「……はい」


「だが、持つようにはできる」


ダンはそれ以上説明しなかった。


麻紐を濡らし、木剣の傷口へ巻いていく。強すぎれば木が割れる。弱すぎれば留まらない。ダンの手は慣れていた。車輪を直す時と似ている。けれど、どこか違っていた。これは荷馬車の道具ではない。少年が手放せずにいるものだった。


アルトは少し離れた場所から、その手つきを見ていた。


雨の匂いがする。濡れた土の匂い。湿った木の匂い。小屋に染みついた古い煙の匂い。その中で、ダンが木剣へ巻いていく麻紐だけが、妙に白く見えた。


昔、リシアが似たようなことを言った気がする。


何についてだったかは思い出せない。剣だったのか、魔法だったのか、それとも人の心についてだったのか。記憶の中のリシアは、いつも何かを言いかけている。けれど、肝心なところで声が雨の音に紛れてしまう。


ダンは結び目を作り、余った紐を短く切った。


裂け目は消えていない。


むしろ、白い麻紐に縛られたことで、前より目立つようになった。それでも木剣を受け取ったレオは、さっきより慎重に柄を握った。親指がいつものくぼみに戻る。木剣は少しだけ重くなったように見えた。


「振ってみろ」


ダンが言う。


レオは小屋の入口まで歩き、雨のかからない場所で一度だけ構えた。いつものように振ろうとして、途中で止まる。裂け目が気になるのだろう。肩に余計な力が入っている。


「無理に振るな」


ダンは言った。


「今は、持っていればいい」


レオは黙って頷いた。


ミアが木剣を見ている。


「強くなった?」


レオは少しだけ困った顔をした。


「直しただけだろ」


「違う」


ミアは首を振る。


「前より、こわい」


レオは木剣を見る。


ダンも見る。


アルトも見る。


白い麻紐で縛られた木剣は、確かに新品には見えなかった。綺麗でもない。傷は隠れていない。けれど、ただ壊れかけた道具にも見えなかった。


雨が降り続いている。


ノアは手帳を膝の上に置いたまま、その木剣を見つめていた。書くべき言葉がないのではない。書くと何かがずれる気がした。木は裂けた。麻紐で留められた。それだけなら書ける。


けれど、ミアの言った「こわい」は書けなかった。


それは観察ではなく、たぶん、何か別のものだった。


レオは木剣を抱え、小屋の奥へ戻る。ミアはその隣へ座り、自分の小さな外套を半分だけレオの膝に掛けた。


「濡れる」


「俺はいい」


「木剣」


「ああ」


「レオも」


レオは何も言わなかった。


ミアは少し考え、雨の音を聞きながら呟いた。


「善処する」


レオは横目で見た。


「お前、意味分かって使ってるのか」


「だいたい」


「だいたいかよ」


「概ね」


レオは小さく笑った。


その笑いはすぐに雨の音へ混ざったが、アルトには聞こえた。聞こえただけではない。胸のどこかに、ほんの少しだけ残った。


彼は小屋の外を見た。


谷の方角は雨で白く煙っている。さっきまで人が消えていった道も、今はただの雨の向こうだった。


ダンは荷台の縄を結び直している。


薬草の袋があった場所には、もう何もない。


それでも、縄だけは新しく結ばれていた。

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