『谷の向こう』
例えば壁画、昔話、老人の何気ない一言、古い歌、子どもの遊び。
そうやって世界が少しずつ立ち上がっていきます。
この物語も少しずつ、、、
谷の向こう
朝は、夜より静かだった。
夜には虫の声があり、風は木々の梢を渡り、沢は暗闇の中でも休まず流れ続ける。そのどれもが夜の一部でありながら、夜が明ける少し前になると、不思議なくらい一度だけ息を潜める。山は目を覚ましているはずなのに、まだ誰にもそのことを知らせていない。そんな曖昧な時間が、一日のどこかには必ずあった。
アルトは、その静けさの中で目を覚ました。
眠れたのかどうかは分からない。ただ目を閉じていて、気づけば空が白くなっていた。焚き火は灰になり、昨夜まで赤く燃えていた薪は形だけを残している。火を囲んで笑っていた声も、鍋から立ち上っていた湯気も、夜の出来事だったことを示すように、黒く焦げた石だけがそこにあった。
沢まで歩き、手を浸す。
水は冷たかった。
掌を包むその冷たさを、アルトはしばらく黙って感じていた。以前なら、水は身体を濡らすもの以上でも以下でもなかった。冷たいとも思わず、心地よいとも思わない。ただ流れ、ただ乾いていく。それだけだった。
最近になって、そうではなくなってきた。
変わった、と言うほどではない。冷たい、と分かるようになった。それだけのことだった。
水面に顔が映る。黒髪は少し伸び、灰色がかった瞳は朝の光の中でもどこか暗く見えた。整った顔立ちは、前髪と俯きが隠してしまっている。旅の途中で誰かとすれ違っても、その男がかつて勇者と呼ばれた人物だと気づく者は、ほとんどいないだろう。
アルト自身も、気づいていなかった。
風が吹く。水面が揺れ、映っていた男の顔は細かく砕けて流れていった。その方が少しだけ安心できた。
少し離れた場所では、ダンが荷馬車の車輪を確かめていた。右手の薬指は最後までまっすぐ伸びない。古い骨折の跡だった。その指で車軸を撫で、耳を澄ませるように車輪を軽く叩く。商人の仕草に見えるのに、その手だけは昔の戦場をどこかに残していた。
「今日は早めに谷を抜ける」
ダンはそう言って、馬の首を撫でた。馬は小さく鼻を鳴らし、分かったとも、分からないともつかない顔で耳を動かした。
レオは木剣を腰へ差していた。焦茶色の髪は寝癖で跳ねていて、右の頬には布の跡がついている。ミアがそれを見つけ、何も言わずに指で押した。
「なんだよ」
「レオ、ついてる」
「何が」
「朝」
レオはしばらく考え、それから自分の頬を乱暴に擦った。ミアは満足そうに頷く。
「取れた」
「絶対取れてねえだろ」
「承知した」
「承知してねえだろ、それ」
ルナが声を立てて笑った。朝の冷えた空気の中で、その笑い声だけが小さく温かかった。
ノアは少し離れた場所でそれを見ていた。黒に近い茶色の髪が朝日に透け、眠そうにも見えたが、まばたきは少なかった。手帳は出していない。ただ、鉛筆を持つ指だけが一度動き、すぐに止まった。
朝食は昨夜の残りだった。
豆の煮込みは、昨夜よりも焦げていなかった。塩は少し多い。アルトはそれを口にしてから、しばらく器を見つめた。味が分かる。うまい、まずいではなく、ただ違いが分かる。その事実が、食べ物そのものより少し遅れて胸の中へ届いた。
「今日は焦げてない」
アルトが言うと、ダンは一瞬だけ目を丸くした。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
レオは木剣を膝に置き、食後の布で柄を拭いていた。木剣というより、長く一緒に旅をしてきた道具のようだった。何度も握られた場所だけが黒ずみ、右手の親指が当たる辺りには浅いくぼみができている。
ダンはそれを見て、荷紐を結ぶ手を止めた。
「大事なんだな」
レオの手がわずかに止まる。
「父さんが作ってくれたので」
それだけだった。
誰も続きを聞かなかった。ミアは木剣をじっと見ていたが、触れようとはしなかった。ノアも見ていた。けれど、やはり手帳は開かなかった。
荷馬車は、朝の光の中をゆっくり動き出した。
谷へ近づくにつれ、道は細くなっていく。両側の岩肌は白く乾き、ところどころ黒い苔が張り付いていた。上を見上げると空は細長く切り取られ、山そのものが刃物で割られ、その隙間に道だけが残されたようにも見えた。
馬の足音が少し変わった。
土が硬くなっている。ダンは何も言わず、手綱を短く持ち直した。アルトはその仕草を見ていた。理由は聞かない。ダンが理由を言わない時は、言わないだけの理由がある。
鳥の声が消えた。
最初に気づいたのはミアだった。
「静か」
それだけ言った。
レオが木剣の柄へ手を置く。ミアの半歩前へ出る動きは、昨日よりほんの少し遅かった。急いで前へ飛び出すのではなく、足元を一度見てから位置を選んでいる。
ノアも上を見た。岩肌の隙間、影の濃い場所、風が流れる方向。目は動いているのに、身体は少し遅れていた。彼女は見てしまう。見ている間に、近づくことが一拍遅れる。
谷の曲がり角へ差しかかる。
風が止んだ。
次に聞こえたのは、木へ何かが刺さる音だった。
荷馬車の幌に、一本の矢が突き立っていた。
誰もすぐには声を出さなかった。声より先に、二本目の矢が飛んできた。ダンは手綱を引き、馬を岩壁側へ寄せる。ルナが小さく叫び、荷台の中で身を縮めた。
「伏せろ」
ダンの声は大きくなかった。
それでも全員に届いた。
レオはミアの肩を押し、荷馬車の陰へ入れようとした。ミアは抵抗しなかった。ただ、淡い灰緑の目で谷の上を見ている。
「上」
その一言が終わる前に、岩の上から三人が降りてきた。
粗末な革鎧。短い槍。錆の浮いた剣。顔を布で覆っている者もいた。盗賊、という言葉で片づけるには、その武器も服も疲れすぎていた。
ノアは一歩遅れた。
矢の角度。人数。立ち位置。逃げ道。見ているうちに身体が止まる。レオがそれに気づいて、叫ぶより先に走った。
「ノア!」
その時、アルトの身体が動いた。
聖剣を抜いた記憶はなかった。いつ腰から抜いたのか、本人にも分からない。ただ手の中には、かつて何度も振るった重さがあった。矢が一本、ノアの肩の高さへ飛んでくる。アルトは身体を半歩だけずらし、剣の腹でそれを落とした。
乾いた音が谷に響いた。
ノアはその音で、ようやく息をした。
「下がれ」
アルトは言った。
声は自分のもののようで、少し違って聞こえた。命令ではなく、身体の奥から出た短い音だった。
レオは木剣を抜いた。刃のない剣を両手で握る。右手の親指の付け根にできた硬い皮が、柄に吸いつくように重なった。目の前に降りてきた男が短剣を構える。レオの肩が跳ねる。
怖い。
それは顔に出た。
それでも引かなかった。
男が踏み込む。レオは受けた。木剣と短剣がぶつかり、鈍い音がした。木の表面が削れる。レオの腕に衝撃が走り、足が一歩下がる。ミアが後ろで息を呑む。
「レオ」
「平気」
平気ではなかった。
だが、レオは足元を見た。石がある。昨日なら見ていなかった石だった。彼は踏み直し、今度は真正面ではなく、少し斜めに受けた。
木剣が軋む。
アルトはその音を聞いた。
矢を払う。荷馬車へ走る。ルナを抱えて地面へ伏せさせる。馬の手綱が暴れ、ダンが片手で押さえる。すべてが同時に起きているようだった。考える余裕はなかった。身体だけが順番を知っていた。
一人の盗賊が荷台へ手を伸ばす。
ダンがその腕を掴んだ。まっすぐ伸びない薬指を含めた右手が、相手の手首をねじる。商人の手ではなかった。男が呻き、膝をつく。
「荷には触るな」
ダンはそれだけ言った。
岩の上で、ガルドは弓を下ろしていた。
片袖が風に揺れている。顔を隠してはいない。谷の下で剣を振るう男を見て、初めてその顔をまともに見た。伸びた黒髪の奥に、灰色がかった目がある。整った顔立ちだったが、それより先に目が残った。
英雄の目ではなかった。
何かを見失った人間の目だった。
「兄貴!」
トビが岩陰から叫ぶ。
「薬、見つけました!」
別の盗賊が荷台の革袋を抱えている。薬草の束が入っている袋だった。ダンが振り向く。ルナが荷台の中から手を伸ばしかける。
その時、昼間の男が谷へ降りた。
「邪魔だ」
男はレオの相手をしていた盗賊を押しのけ、短剣を抜く。レオは構え直すが、相手の速度が違った。木剣で受ける。
乾いた音がした。
木剣に亀裂が入った。
レオの顔から血の気が引く。
もう一撃。
木剣は折れなかった。折れなかったが、昨日までの木剣ではなくなった。裂け目が深くなり、油を吸った木肌が白く割れている。
男が三撃目を振り下ろそうとした瞬間、アルトが間に入った。聖剣の刃が短剣を受ける。金属の音が谷を震わせる。
アルトの灰色の目が、男を見た。
男は一瞬、動きを止めた。
その隙にレオはミアを背中へ押しやる。ミアは木剣を見ていた。割れた場所を、じっと見ていた。
「痛そう」
小さく言った。
レオは返事をしなかった。
岩の上から、頭目の声が落ちてくる。
「引け」
短い声だった。
盗賊たちは荷を抱え、素早く道の上へ散る。殺し合いに慣れた動きではない。逃げることに慣れた動きだった。
ダンが追おうとする。
ガルドが岩の上から降りた。
二人の目が合う。
ほんの短い時間だった。
ダンは手綱を握ったまま、動かなかった。ガルドも弓を構えなかった。谷の中で、二人だけが昨日の続きに立っているようだった。
「ガルド」
ダンが言った。
名を呼ばれた瞬間、盗賊たちの動きがわずかに乱れた。トビが振り返る。昼間の男が舌打ちをする。
ガルドは答えない。
答えないまま、薬草の袋を持った男へ視線を向ける。男はそれを抱えて岩場へ上がっていく。
ルナが泣きそうな顔でダンを見る。
「お父さん」
ダンは動かなかった。
動けなかったのではない。
動かなかった。
アルトはその横に立っていた。聖剣を持つ手だけが、まだ戦っているように固い。身体は次の矢を待っている。次の刃を待っている。終わったことを、身体だけが分かっていない。
ガルドの視線がアルトへ移る。
アルトも見返した。
谷の上から光が差して、ほんの一瞬だけ、アルトの顔にかかった髪が風で払われた。灰色の目が見える。ガルドは何かを言いかけたように見えた。
何も言わなかった。
頭目がもう一度言う。
「行くぞ」
ガルドは背を向ける。
盗賊たちは岩の向こうへ消えていった。最後に、昼間の男だけが振り返る。笑ってはいなかった。ただ、レオの木剣を見る。裂け目を見る。それから消えた。
谷に音が戻ってきた。
沢の水。
馬の荒い息。
ルナのすすり泣き。
ノアは足元に落ちた鉛筆を見つめていた。いつ落としたのか覚えていない。手帳は胸に抱えたままだった。拾おうとして、手が止まる。
レオは木剣を見ている。
割れていた。
まだつながっている。
けれど、もう昨日と同じではなかった。
ミアがそっと近づく。
「レオ」
「見るな」
「見る」
レオは唇を噛んだ。
ミアは裂けた木剣へ手を伸ばさなかった。ただ隣に立った。淡い瞳は、剣ではなくレオの手を見ていた。
アルトは聖剣を下ろした。
自分がいつ抜いたのか、まだ思い出せなかった。腕にはルナを抱えた感触が残っている。耳の奥には矢を弾いた音が残っている。身体は動いた。守った。間に合ったものもあった。
間に合わなかったものもあった。
ダンが荷馬車へ歩く。
奪われた袋があった場所を確認する。薬草の袋がない。食料は残っている。金目のものにも手はつけられていない。
「薬だけだ」
ダンが言った。
誰に向けた言葉でもなかった。
アルトは谷の上を見た。
そこにはもう誰もいない。
ただ、岩肌に落ちた小さな白い花びらだけが、風に押されて揺れていた。




