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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『夜の荷馬車』

夜の荷馬車


夜の街道には、昼間とは違う顔があった。


日が落ちると、道はただの道ではなくなる。草むらの奥にある影も、木々の間に沈んだ闇も、昼間には気にも留めなかった小さな物音も、すべてがこちらを見ているように感じられる。荷馬車の車輪が土を噛む音だけが、かろうじて人間の側にあるものだった。


ダンは急がなかった。


手綱を握る手はいつも通りで、馬へ掛ける声も低く、柔らかい。だが、アルトにはその背中が少しだけ硬く見えた。理由は分からない。何かを警戒しているのかもしれないし、ただ夜の山道に慣れているだけかもしれない。


「この先で泊まる」


ダンが言った。


荷馬車は、道脇の開けた場所へゆっくり入っていった。大きな岩が風除けになり、近くには細い沢が流れている。旅人が何度も使ってきた場所なのだろう。黒く焦げた石がいくつか残っていた。


レオはすぐに薪を集め始めた。


昼間の子山羊のことが、まだ残っているのかもしれない。彼はいつもよりよく周囲を見ていた。足元を見て、木の根を避け、乾いた枝だけを選ぶ。その動きは少しぎこちなかったが、昼間よりは落ち着いていた。


ミアはその後ろをついていく。


「レオ、こっちは?」


「湿ってる」


「じゃあこっち」


「それは虫がいる」


ミアは枝を放り投げた。


「虫さん、住んでた」


「そうだな」


「じゃあ、だめ」


レオは少し笑った。


その笑い方を、アルトは見ていた。昼間、届かなかった少年が、夜には妹の前でいつもの兄に戻ろうとしている。戻ろうとしているのか、戻れているのか、その違いは分からなかった。ただ、レオは薪を拾いながら何度も足元を見た。


それだけは分かった。


火が起きると、辺りの闇が少しだけ退いた。


ルナはダンの隣で豆の入った小鍋を覗き込んでいる。ミアも隣へ座り、二人で湯気を見ていた。湯気は夜の冷たい空気の中で白く立ち上り、すぐに消える。


「まだ?」


ミアが聞く。


「まだ」


ルナが答える。


「あとどれくらい?」


ルナは少し考えた。


「鳥が三回鳴くくらい」


ミアは真剣に耳を澄ませた。


レオが吹き出す。


「夜に鳥は鳴かねえよ」


「じゃあ、ずっとまだ?」


「違う」


「レオ、説明へた」


「お前が変なんだ」


ダンが笑った。


アルトはその笑い声を聞いていた。


火の匂い。豆の匂い。濡れた土の匂い。夜の山の匂い。そういうものが、自分の中へ少しずつ入ってくる。以前なら、そのどれもが遠かった。世界は見えていた。聞こえていた。けれど、自分のところまでは届かなかった。


今は、少しだけ届いている。


そう思ってから、アルトはその考えをすぐに手放した。信じるには、まだ早すぎる気がした。


食事が配られた。


木の器に入った豆の煮込みは、薄い塩味だった。特別にうまいものではない。少し焦げていたし、豆の皮も硬かった。それでも温かかった。


アルトは一口食べた。


飲み込む。


もう一口食べる。


ダンがこちらを見ていることに気付いた。


「どうだ」


「……焦げてる」


ルナが慌てて鍋を見る。


「焦げてる?」


ミアも覗き込む。


「ほんと?」


ダンは肩を揺らして笑った。


「それだけ分かれば十分だ」


アルトは返す言葉を失った。


焦げている。


ただそれだけのことだった。


それなのに、そのことを口にした自分が少しだけ不思議だった。昔なら黙って食べていただろう。もっと前なら、味があることにも気付かなかったかもしれない。


ノアは器を手にしたまま、アルトを見ていた。


観察している目だった。


だが、今日は手帳を開かない。


「書かないのか」


アルトが聞いた。


ノアは少し間を置いた。


「書くと、分かったことになってしまうので」


「分かってないのか」


「はい」


ノアは素直に頷いた。


「だから、見ています」


アルトは焚き火へ視線を戻した。


火は薪を食べるように燃えている。赤く、黄色く、時々青く。その色は混じっているのに、互いを消していなかった。


しばらく誰も話さなかった。


やがてレオが、ミアの靴紐を結び直していることにアルトは気付いた。ほどけていたわけではない。少し緩んでいただけだった。ミアは当たり前のように足を差し出し、レオも当たり前のように結ぶ。


昼間、レオは届かなかった。


夜、彼は届くものを結び直していた。


「レオ」


ミアが言う。


「なに」


「山羊さん、帰れたね」


レオの手が少し止まる。


「そうだな」


「レオも落ちなかった」


「……そうだな」


「よかった」


レオは何も言わなかった。


結び終えた靴紐を軽く引き、すぐに手を離す。


その顔は、昼間より少しだけ大人びて見えた。


ダンは酒の入っていない革袋を口へ運び、喉を鳴らした。水だった。夜風の中で、水を飲む音だけがやけにはっきり聞こえた。


「ガルドもな」


ぽつりと言った。


誰もすぐには返事をしなかった。


ダンは焚き火を見ていた。


「昔、似たようなことがあった。崩れた家の下に子どもが取り残されてな。撤退の鐘が鳴ってた。戻れば巻き込まれる。皆、分かってた」


火が小さく鳴った。


「ガルドだけが行った」


レオが顔を上げる。


「助けたんですか」


「ああ」


ダンは頷いた。


「子どもは助かった」


そこで言葉が止まる。


夜の音が戻ってくる。沢の水。草むらの虫。馬が鼻を鳴らす音。


「でも、ガルドを引き戻しに行った奴が一人死んだ」


レオは何も言えなかった。


ミアも黙っていた。


ルナはダンの袖を握っている。


「その日から、あいつは助けてよかったとは言わなくなった。助けたことより、助けるために失ったものの方を覚えるようになった」


ダンは焚き火へ枝を一本くべた。


「そういう男だった」


それだけだった。


アルトは火を見ていた。


父の顔が浮かぶ。母の声が浮かぶ。そして、リシアの横顔が浮かぶ。何かを言いかけて、結局言わなかった横顔だった。


あの時、聞けばよかった。


何を、と問われても答えられない。ただ、聞けばよかったという感覚だけが残っている。言葉にならなかった後悔は、時間が経っても形を変えない。むしろ、時間が経つほど輪郭だけが硬くなる。


「アルト」


ダンが呼んだ。


「山羊を助けた時、何を考えてた」


アルトは少し黙った。


火の中で、細い枝が折れる。


「何も」


そう答えた。


「何も考えてなかった」


ダンは頷いた。


「そうか」


「考えてたら、動けなかったと思う」


口にしてから、アルトは自分の言葉に少し驚いた。自分で考えたというより、どこかから落ちてきた言葉のようだった。


ダンはそれ以上聞かなかった。


レオが小さく呟く。


「俺は、考える準備すらしていなかった」


誰も笑わない。


「次は準備をする」


レオは言った。

準備をする。準備が出来ることは幸せなことなのだろう。周りに守ってくれる大人がいる。

それでも、、、


それは誰かへ向けた宣言ではなかった。自分の膝の上に置いた手へ向けた言葉のようだった。


ミアがその手に、自分の手を重ねた。


「承知した」


噛み締めるように言う。


レオは少しだけ笑った。


夜は深くなっていった。


一人ずつ眠りに落ちていく。ルナはダンの膝にもたれ、ミアはレオのそばで丸くなる。ノアは火のそばに座ったまま、しばらく空を見ていた。


「書かないのか」


今度はレオが聞いた。


ノアは手帳を膝の上に置いていた。


「書けないんです」


「珍しいな」


「はい」


ノアは手帳を閉じる。


「珍しいです」


それだけだった。


アルトは横になった。


眠れるかどうかは分からなかった。だが、目を閉じることはできた。火の匂いがする。豆の焦げた匂いがする。ミアが寝返りを打つ小さな音がする。


世界はまだ遠い。


それでも、完全には遠くなかった。


その頃、山の向こうでも火が消えかけていた。


砦の中庭では、最後の見張りが立っている。ガルドは眠れず、石壁にもたれたまま夜の外を見ていた。胸元の花はもうない。どこで落としたのか思い出せなかった。


昼間の男が近くで剣を研いでいる。


「明日、迷うなよ」


男は刃を見たまま言った。


ガルドは答えない。


「迷う奴がいると、こっちが死ぬ」


砥石の音が続く。


「殺すな、なんて言葉を真に受けるな」


ガルドは空を見る。


星が出ていた。


昨日、峠で見た空と同じだった。


「薬だけだ」


ガルドは言った。


男は鼻で笑う。


「相手が渡せばな」


それきりだった。


砦の奥で、子どもが咳をした。


一度。


二度。


三度目は少し長かった。


ガルドは目を閉じる。


開く。


夜の山道は、黒く沈んでいる。


その向こうに、明日の街道があった。

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