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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『ここだ』

ここだ


砦へ戻る頃には、山の稜線へ夕日が沈み始めていた。


石壁は赤く染まり、崩れた見張り台の影が中庭をゆっくりと横切っていく。鍋からは湯気が立ち、洗濯物が夕風を受けて揺れていた。子どもたちは木切れを剣に見立てて走り回り、その脇では年老いた女が黙って衣服のほころびを縫っている。


誰も笑ってはいなかった。


けれど、誰も泣いてもいなかった。


ガルドは門をくぐると胸元へ目を落とした。


朝、リルが挿した白い花が、そのまま残っている。


花びらが一枚だけ欠けていた。


「兄貴。」


薪を抱えたトビが駆け寄ってくる。


肩で息をしながら、少し誇らしそうに笑った。


「今日は全部割れた。」


「そうか。」


ガルドは薪を一本持ち上げ、割り口を眺める。


真っ直ぐだった。


「前より上手くなったな。」


トビは少し照れくさそうに鼻をこすった。


その様子を見ていた男が、鼻で笑う。


「甘いな。」


三十代半ばほどの盗賊だった。


左の頬に古い刀傷が走り、腰には短剣を二本差している。


「薪なんか褒めても腹は膨れねぇ。」


トビは笑顔を引っ込める。


ガルドは男を見る。


何も言わない。


男は肩をすくめた。


「違うか?」


「……。」


「明日にはまた人を襲うんだ。子ども相手に父親ごっこしてる暇があるなら、剣でも研いどけ。」


静かな声だった。


怒鳴りもしない。


だからこそ、中庭の空気が少しだけ冷えた。


リルは男の方を見ない。


トビも黙ったまま薪を抱え直す。


ガルドは短く息を吐いた。


「研ぐ。」


それだけ答えて歩き出す。


男は背中へ言葉を投げた。


「お前はまだ傭兵気分が抜けてねぇ。」


返事はなかった。


砦の一番奥、崩れかけた部屋では頭目が地図を広げていた。


灯火はまだ点けていない。


窓から差し込む夕暮れだけで十分だった。


ガルドは机の前へ立つ。


頭目は地図を指で押さえたまま顔を上げない。


「熱が三人。」


短い報告だった。


「薬草も残りわずかだ。」


ガルドは黙って聞く。


机の上には薬草の束が一つ置かれていた。


乾き始めている。


誰が見ても足りなかった。


頭目は地図の上を指でなぞる。


谷。


街道。


峠。


どれも見慣れた地形だった。


「ここだ。」


その一言だけだった。


ガルドは地図へ目を落とす。


風向き。


崖。


荷馬車が止まりやすい曲がり角。


身体が勝手に読んでしまう。


長年染みついた癖は、そう簡単には抜けない。


部屋の外で、誰かが咳をした。


子どもの咳だった。


それは一度では終わらず、小さく続いた。


ガルドは顔を上げる。


頭目は何も言わない。


二人とも、その咳が誰のものか知っていた。


「殺すな。」


頭目は静かに言う。


部屋の空気は動かなかった。


「できるだけ。」


言い直す。


そのわずかな違いだけが、この命令の現実だった。


ガルドは返事をしない。


返事をすれば、その言葉が本当になってしまう気がした。


しばらくして、小さく頷く。


部屋を出ると、さきほどの男が壁にもたれて剣を研いでいた。


石と刃が擦れる音だけが続く。


男は顔を上げずに言う。


「できるだけ、ね。」


笑っているようにも聞こえた。


呆れているようにも聞こえた。


「そんな都合よく済めば、俺たちは盗賊なんかやってねぇ。」


ガルドは立ち止まらない。


男もそれ以上は言わなかった。


剣を研ぐ音だけが、夕暮れへ細く響いていた。


中庭ではリルが花へ水をやっている。


小さな木桶を両手で抱え、一株ずつ丁寧に水を注いでいた。


白い花は夕風に揺れている。


朝と同じ花だった。


ガルドはその前で足を止める。


何かを言おうとして、やめた。


風が吹く。


胸元の白い花びらが一枚、音もなく地面へ落ちた。


リルは気づかなかった。


ガルドも拾わなかった。


花びらは風に押され、砦の外へ転がっていった。

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