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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『子山羊』

子山羊


鳴き声は、谷底からではなかった。


街道から少し外れた斜面の途中、岩肌が剥き出しになった場所に、小さな岩棚があった。その端で一頭の子山羊が身をよじっている。後ろ脚が岩の隙間に挟まっているらしく、動くたびに小石が崩れ、乾いた音を立てて下へ落ちていった。


母山羊は少し離れた場所を行ったり来たりしていた。人が近づけば逃げる。けれど、子から遠ざかることもできない。近づきたいのに近づけないものを見るのは、ひどく落ち着かない。助けたいという気持ちは、時に助けられないという事実をいっそう濃くする。


「俺が行く」


レオはそう言って、返事を待たずに岩場へ足を掛けた。


その動きは速かった。考えるより先に身体が出ている。ミアが小さく息を呑む。ルナはダンの服の裾を握った。ダンは止めなかった。ただ、レオの足元をじっと見ていた。


レオは一歩ずつ進む。子山羊だけを見ている。助けたい。ただそれだけが彼の中にあった。あと少し。指を伸ばせば届く。そう思った瞬間、靴の下で小石が滑った。


身体が傾く。


レオはとっさに岩へ手をついた。落ちはしなかった。けれど、それ以上は進めなかった。足場が崩れかけている。無理に踏み出せば、子山羊だけでなく、自分まで斜面へ落ちる。


「くそ……」


声は小さかった。


悔しさよりも、自分への怒りに近かった。目の前にいるのに届かない。助けたいのに助けられない。レオはその事実を、初めて自分の身体の重さとして知った。


ダンはまだ動かない。


「行かないんですか」


ノアが小さく聞いた。


ダンは斜面を見たまま答えた。


「行く時と、見てる時がある」


「どう違うんですか」


「今は、あいつが自分で止まった」


それだけだった。


ノアはレオを見る。確かに、レオは無理に進まなかった。届かない悔しさの中で、それでも踏み出さないことを選んでいた。それが怖かったからなのか、判断だったのか、ノアにはまだ分からない。ただ、そこには何かがあった。勇気とも臆病とも、すぐには名前を付けられないものだった。


その時、アルトが動いた。


誰も声を掛けていない。レオを押しのけることも、叱ることもしなかった。ただ静かに斜面へ足を置いた。岩を踏む音は小さく、風の中へすぐに消えた。


アルトは子山羊を見ているようで、見ていなかった。足場を見ている。岩の割れ目を見ている。斜面に残る湿り気を見ている。風がどちらから吹くか、どの石が体重を支えるか、どこで身体を低くすれば崩れないか。そういうものを、一つひとつ確かめているようでいて、実際にはほとんど考えていないようにも見えた。


身体が覚えている。


長い旅の中で、戦いの中で、逃げる者を追い、倒れた者を抱え、崩れる橋を渡り、燃える家から人を引きずり出した身体が、心よりも深い場所で動いていた。心が折れても、身体に沈んだ記憶は消えない。消えてくれない、と言った方が正しいのかもしれない。


アルトはレオの横を通り過ぎる。


レオは何も言わなかった。


ただ、その背中を見ていた。


アルトは子山羊の前で膝をついた。子山羊は暴れていた。今すぐ引き抜けば脚を傷める。アルトは手を伸ばしかけて、止めた。


待つ。


風が一度、岩肌を撫でていった。子山羊の身体から力が抜ける。ほんの一呼吸。その一瞬を逃さず、アルトは子山羊の胴を抱え、岩の隙間から脚を外した。


軽かった。


驚くほど軽かった。


腕の中の命は震えていた。小さく、温かく、頼りなく、それでいて確かに生きていた。アルトはその重さを知っている気がした。どこで知ったのかは思い出せない。思い出そうとすると、胸の奥が少しだけ軋んだ。


子山羊を地面へ降ろすと、母山羊が駆け寄った。鼻先を何度も子の背へ押し当てる。叱るようにも見えたし、確かめるようにも見えた。安心しているようにも、怒っているようにも見えた。人間の言葉では、動物の感情をうまく分けることができない。


やがて二頭は、山の奥へ走っていった。


振り返らなかった。


礼もなかった。


それでよかった。


助けられたものが、助けた者へいつまでも振り返らなくていい世界の方が、本当は少しだけ優しい。命は感謝のために生きているわけではない。ただ、帰るべき場所へ帰るために生きている。


草が揺れた。


風が通る。


山は、何事もなかったように静けさを取り戻した。


「帰れたね」


ミアが言った。


その言葉は、子山羊へ向けたもののようでもあり、母山羊へ向けたもののようでもあり、もっと遠くにいる誰かへ向けたもののようでもあった。


アルトは二頭が消えた場所を見ていた。助かったことは分かる。よかったことも理解できる。目の前で失われかけた命が元の場所へ帰っていくことを、美しいことだとも思う。


だが、自分の胸は驚くほど静かだった。


風の冷たさは感じる。岩肌から返る陽の熱も分かる。腕にはまだ、子山羊の小さな温もりが残っている。それなのに、その温もりへ応えるはずの何かだけが、自分の中には見当たらなかった。


――違う。


アルトは小さく首を振った。


本当に、何もないのだろうか。


魔王を倒した直後の自分なら、この景色を見ても立ち止まらなかったかもしれない。助かった命が山へ帰る後ろ姿を、こんなふうに目で追うことさえなかったかもしれない。レオが悔しそうに拳を握っていることも、ミアの「帰れたね」という一言が少しだけ胸に残ったことも、気づかないまま通り過ぎていたかもしれない。


あの頃、自分は悲しかったのではない。


苦しかったのでもない。


ただ、遠かった。


世界が遠かった。歓声も、食事の味も、朝の光も、誰かの笑顔も、厚い硝子の向こう側にあるもののようだった。見えている。聞こえている。理解もしている。けれど、自分のところまでは届かない。


今も苦しい。


今も笑えない。


けれど、苦しいと思える場所まで、世界は戻ってきているのかもしれなかった。


「アルト」


ミアがこちらを見ていた。


「笑った」


アルトは目を瞬かせる。


「……俺が?」


ミアは頷いた。


「うん」


「笑ってない」


「笑った」


「見間違いだ」


「ちがう」


ミアはそこで少し考える。


「ほんのちょっと」


レオも顔を上げた。


「俺も見た」


ルナも小さく手を挙げる。


「わたしも」


アルトは自分の頬へ手を当てた。笑った覚えはない。頬の筋肉が動いた感覚もない。けれど、否定する言葉も見つからなかった。


ダンだけは何も言わなかった。


ただ、少し遠くからアルトを見ていた。その目は、何かを見抜いた人間の目ではなかった。待つことを知っている人間の目だった。


レオは岩場からゆっくり戻ってきた。手のひらに擦り傷ができている。血が少し滲んでいた。ミアはそれを見つけると、何も言わずに近づいた。


「手」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃない」


「これくらい」


「血、出てる」


レオは言い返そうとして、やめた。ミアが小さな布を取り出し、傷へ押し当てる。力加減が下手で、レオは少し顔をしかめた。


「痛い」


「がまん」


「お前が言うな」


「レオ、届かなかった?」


ミアは何気なく聞いた。


レオは黙る。


風が二人の間を通った。


「……届かなかった」


その声は、思ったより素直だった。


「あと少しだった」


「うん」


ミアは布を押さえたまま頷いた。


「でも、止まった」


レオはミアを見る。


「落ちなかった」


ミアはそう言った。


レオは少しだけ驚いた顔をした。


助けられなかったことしか見えていなかった。届かなかったことだけを悔やんでいた。けれどミアは、別のものを見ていた。無理に飛び込まなかったこと。落ちなかったこと。自分まで助けられる側にならなかったこと。


レオはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐く。


「次は、ちゃんと見る」


強くなる、とは言わなかった。


届かせる、とも言わなかった。


ただ、見る、と言った。


アルトはその言葉を聞いていた。レオはまだ幼い。力も足りない。焦るし、悔しがるし、すぐに走り出す。それでも今、彼は何かを一つ覚えたのだと思った。


守るためには、まず見る。


その単純なことを、勇者だった自分はいつ覚えたのだろう。あるいは、最後まで覚えられなかったのだろうか。


ノアは少し離れた場所に立っていた。


彼はアルトの顔を見ていなかった。右手を見ていた。子山羊を抱き上げた瞬間、その指先の周囲だけ、空気がわずかに揺れた。光ったと言えば違う。魔力が流れたと言えば、もっと違う。陽炎のようで、しかし熱ではなかった。


ノアは手帳を開いた。


いつもなら、ここで何かを書く。観察したことを、できるだけ正確に。事実と仮説を分け、判断を後へ残す。それがノアのやり方だった。


しかし、今日は書けなかった。


「意思」ではない。


そう思った。


アルトは助けようと決意したわけではない。勇者として振る舞ったわけでもない。考えるより先に動いた。世界が応えたのは、言葉になる前の何かだった。


ノアはペンを止めたまま、しばらく白い紙を見つめた。


書けば、分かったことになってしまう。


それが怖かった。


結局、何も書かずに手帳を閉じた。


ダンがアルトの横へ来る。


「腹、減ったか」


何気ない問いだった。


子山羊のことも、笑ったことも、指先の光のことも言わない。ただ、腹が減ったかと聞く。


アルトは答えようとして、少しだけ迷った。


以前なら分からないと答えていたかもしれない。あるいは、減っていないと答えていたかもしれない。腹は減る。食べられる。味も分かる。けれど、それが自分の中の感覚として戻ってくるまでには、いつも少し距離があった。


「……少し」


口にした瞬間、自分が一番驚いた。


少し。


たったそれだけだった。


けれど、その言葉は胸のどこかへ静かに落ちていった。腹が減ったというより、腹が減るという感覚を、久しぶりに思い出したようだった。


ダンは笑わなかった。


喜びもしなかった。


「そうか」


それだけ言って、荷馬車の方へ歩き出す。


商人は芽を急がない。種を蒔いた翌日に花が咲くとは思わない。壊れかけた車輪に油を差したからといって、すぐに新品へ戻るとも思わない。


人も同じだと知っている。


アルトはしばらくその背中を見ていた。胸の奥はまだ重い。苦しさも消えていない。世界が急に鮮やかになったわけでもない。


それでも、ほんの少しだけ。


世界は、前より近いところにあった。

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