『街道』
第二章 街道
街道には、昨日と変わらない朝が流れていた。
夜露をまとった草は歩くたびに裾を濡らし、荷馬車の車輪には昨日の泥がまだ薄く残っている。馬は眠っているように見えたが、耳だけは時折小さく動いた。眠っている者と起きている者の境目は、人間より動物の方が曖昧なのかもしれない、とアルトは思う。
車輪が小さく軋んだ。
ダンはすぐに荷馬車を止めた。
「少し待ってくれ。」
そう言うと、腰に下げた革袋から小さな油壺を取り出し、しゃがみ込んで車軸へ油を差し始める。油は木目へ静かに染み込み、乾いた軋みはいつの間にか柔らかな音へ変わっていた。
レオは興味深そうにその様子を覗き込む。
「そんな少しの音で分かるんですか。」
「長く付き合えばな。」
ダンは車輪を軽く叩いた。
「壊れるものは、壊れる前に少しだけ声が変わる。馬もそうだし、荷馬車もそうだ。」
そこで一度言葉を切り、穏やかな笑みを浮かべる。
「人もな。」
レオは真面目な顔で頷いた。
ノアは何も言わない。
その言葉だけを胸へしまうように、小さく目を伏せた。
壊れる前には音が変わる。
それは観察として書き留めるには美しい言葉だった。しかし、今日はなぜか手帳を開く気になれなかった。
言葉にした瞬間、見えなくなるものもある。
そんな気がした。
少し先では、ミアが道端へしゃがみ込んでいた。
名前も知らない花を見つめている。
朝露を抱いた白い花だった。
「ミア。」
レオが呼ぶ。
返事はない。
「また髪、絡まってるぞ。」
ようやく振り向く。
「あとで。」
「あとでじゃなくて今。」
「花見てる。」
「花は逃げない。」
ミアは少し考えてから首を振った。
「逃げる。」
「何が。」
「朝。」
レオは困ったように笑う。
「分かった。朝が逃げる前にな。」
そう言って妹の髪へ櫛を入れる。
金色の髪が朝日を受け、一本一本が蜂蜜を溶かしたように光を返した。
その様子を見てルナが笑う。
ダンもつられて笑う。
兄妹は相変わらずだな、と呟く。
アルトは少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
兄妹とは不思議なものだと思う。
言い争っているように見えて、決して相手から離れない。
世話を焼いているようで、実は世話を焼かれている。
近すぎるから気付かない。
離れて初めて、その距離が家族というものだったと知る。
アルトにも妹がいた。
幼い頃、一緒に野原を走った記憶がある。
花を摘んだこともあった。
笑い合った日も、たしかにあった。
だが、その花が何色だったのか思い出せない。
春だったのか、夏だったのかも分からない。
父が倒れた日の空は思い出せる。
母の最後の声も思い出せる。
魔王城の石畳が血で濡れていたことも、昨日のことのように覚えている。
それなのに、妹と笑った日の空だけは、霧の向こうへ隠れてしまっていた。
人は忘れたいことほど鮮明に覚え、忘れたくないことほど輪郭から失っていく。
記憶とは、ひどく身勝手なものだった。
「アルト。」
ダンが声を掛ける。
「腹、減ってないか。」
何気ない問いだった。
世界を救ったかどうかでもない。
剣を振れるかどうかでもない。
ただ、腹が減ったか。
それだけだった。
アルトは答えようとして、少しだけ言葉に迷う。
以前なら、
「分からない。」
そう答えていた。
食べられる。
味も分かる。
それでも腹が減るという感覚だけが、自分の中から切り離されていた。
けれど今日は違った。
「……少し。」
口にした瞬間、自分で驚いた。
本当に少しだった。
腹が減ったというより、減り始めたことを思い出したような感覚だった。
ダンは何も言わない。
笑いもしない。
「そうか。」
その一言だけだった。
商人は芽を急がない。
種を蒔いた翌日に花が咲くとは思わない。
人も同じだと知っているからだ。
アルトは小さく息を吐いた。
胸の奥はまだ重い。
世界はまだ遠い。
それでも、自分の中で何かがわずかに動いたことだけは、否定できなかった。
その時だった。
ミアが歩みを止める。
風の向こうへ耳を澄ませるように、静かに谷を見つめる。
「どうした。」
レオが聞く。
ミアは答えない。
しばらく風だけを聞いていた。
そして、小さく呟く。
「帰れない。」
誰も意味が分からなかった。
風しか聞こえない。
鳥の声もない。
数秒遅れて。
谷の下から細い鳴き声が届いた。
助けを呼ぶ、小さな命の声だった。




