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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『砦の朝』

第十七話 砦の朝


砦は、山に忘れられた建物だった。


街道から外れた尾根の上に、その石造りの建物は半ば崩れた姿で残っている。見張り台は何年も前に屋根を失い、風は壁の隙間を通るたび、誰も吹かない笛のような音を鳴らしていた。


昔は国境を守る兵士たちが詰めていたらしい。


門柱には風雨で削れた紋章が残っている。獅子だったのか、鷲だったのか、もう誰にも分からない。国というものは滅びる時、最初に旗を失い、次に名前を失い、最後にそこにいた人間の声を失う。


それでも建物だけは残る。


人間を失った建物は、妙に長生きをする。誰かが帰ってくるのを待っているわけでもないのに、ただそこに立ち続ける。雨に打たれ、雪に埋もれ、夏の日差しに焼かれながら、かつて自分が何のために建てられたのかさえ忘れた顔で、山の上に残っている。


だから廃墟というものは、いつも少しだけ人恋しく見える。


夜明け前、その砦で最初に響くのは薪を割る音だった。


乾いた木が割れる音は、不思議と人を安心させる。


今日も火が使える。


今日も湯が沸く。


今日も誰かが生きられる。


そんな音だった。


斧を振っているのはトビだった。


十六歳になったばかりの少年で、まだ肩幅よりも斧の柄の方が長く見える。それでも毎朝同じ時間に起き、薪を割ることだけは欠かさなかった。砦で暮らす者たちは皆、何か一つだけは自分の役目を持っている。役目がなければ、ここでは生きていけない。食べ物が少ないからではない。居場所というものは、与えられるだけでは人を支えられないからだ。


トビにとって、それが薪割りだった。


最初の頃は力任せに斧を振っていた。薪は割れず、斧は跳ね返り、何度も手の皮が破れた。そのたびにガルドは何も言わず、ただ割れなかった薪を足で転がして向きを変えた。


「そこじゃない。」


今朝も、声だけが飛んできた。


トビは斧を止める。


振り返らなくても分かる。


ガルドだった。


片腕の男は、水桶を抱えたままゆっくり歩いてくる。空になった右袖が朝風に揺れていた。昨日、峠でダンと向き合っていた時と同じ姿だった。けれど表情だけは違う。あの時より少しだけ柔らかい。砦にいる時のガルドは、盗賊というより、壊れかけた家の柱を黙って支えている男に見えた。


「木目を見ろ。」


ガルドは一本の薪を足で転がした。


「割りたい場所を見るな。」


トビは薪を見つめる。


節が複雑に絡み合っている。自分が狙っていた場所では、いくら力を入れても割れないことが、ようやく分かった。


「木が割れたい場所がある。」


ガルドは言う。


「人も同じだ。」


それだけだった。


説明はしない。


ガルドは教える時、理由を長く話さない。自分で考えろ、と口にしたこともない。ただ、そういう教え方しか知らないのだろう。言葉で人を導くことに慣れていない。背中で見せることにも、もう少し疲れている。だから、短い言葉だけを置いていく。


トビはもう一度斧を振った。


今度は、乾いた音が山へ抜けた。


薪はきれいに二つへ割れる。


ガルドは褒めない。


ただ、水桶を持ち上げる左手がほんの少しだけ軽くなったように見えた。


その沈黙だけで、トビには十分だった。


砦の裏には、小さな畑があった。


豆。


玉ねぎ。


薬草。


痩せた土だった。石が多く、雨が少なく、山から吹く風は冷たい。実りは少ない。それでも誰かが毎朝草を抜き、誰かが水をやり、誰かが折れた柵を直す。盗賊の砦だというのに、土だけは律儀だった。


土は相手が盗賊か兵士かを選ばない。


種を蒔く人間を区別しない。


水をやれば、芽を出す。


手を抜けば、枯れる。


ただそれだけだ。


だから時々、人間より土の方が公平なのではないかとガルドは思う。思うだけで、誰にも話したことはない。話したところで、誰かが笑うだけだろうし、たぶん自分でもうまく説明できない。


「ガルド。」


小さな声がした。


リルだった。


七つになったばかりの少女で、裸足のまま石段を駆け下りてくる。転びそうになる。それでも転ばない。子どもは転びながら歩き方を覚える。大人は、転ばない歩き方ばかり覚えてしまう。


「これ。」


リルは白い花を差し出した。


砦の石垣の隙間に咲く花だった。毎年、同じ場所に咲く。誰が植えたのかは分からない。兵士かもしれない。その妻かもしれない。あるいは、ここで遊んでいた子どもだったのかもしれない。


「きれい。」


リルが言う。


ガルドは花を見る。


花より先に、それを持つ小さな手を見る。


擦り傷だらけだった。


昨日も転んだのだろう。


「持ってろ。」


「ガルドに。」


「俺には似合わん。」


リルは首を傾げた。


それから何も言わず、花をガルドの胸元へ差した。


「似合う。」


ガルドは困ったように笑った。


ほんの少しだけ。


その笑顔を、砦の入口に立っていた老人が見ていた。


「昔のお前は、そのくらいよく笑ってた。」


ガルドの指先が止まる。


風が吹く。


胸元の白い花が揺れた。


「……忘れました。」


その声は老人へ向けたものではなかった。もっと遠くに置いてきた誰かへ話しかけるような声だった。


井戸の水は冷たかった。


桶を引き上げるたび、水面に朝日が揺れる。井戸の石には、縄が擦れた跡が深く刻まれている。何十年も、誰かが水を汲み続けた跡だった。


人間は長く使ったものに、自分でも気づかないうちに時間を刻む。


傷は、壊れた証ではない。


そこに誰かが生きていた証でもある。


ガルドは水を木桶へ移す。


その時、小さな咳が聞こえた。


石壁の陰で、一人の老人が毛布を肩に掛けたまま座っていた。昨夜から熱が下がらない。医者はいない。薬も残り少ない。それでも老人は笑った。


「今日もいい天気だ。」


熱がある人間ほど、空の話をしたがる。


明日のことではなく、今日の空だけを見る。


それが生きるということなのかもしれない、とガルドは思った。


「水。」


桶を差し出す。


老人は震える手で受け取った。


「すまんな。」


「いい。」


「お前は昔から変わらん。」


ガルドは返事をしない。


昔、という言葉が出るたび、胸のどこかが少しだけ軋む。


変わっていないのか。


変わってしまったのか。


もう自分でも分からない。


砦の中央では粥が煮えていた。


豆と山菜、それに乾燥肉を少しだけ入れた薄い粥。具は少ない。それでも湯気は豊かだった。湯気だけは貧しい者にも、裕福な者にも、同じように立ち上る。


リルが鍋を覗き込む。


「まだ?」


「まだ。」


鍋をかき混ぜていた女が答える。


「あとどれくらい?」


女は少し考えた。


「鳥が三回鳴くくらい。」


リルは真剣な顔で耳を澄ませる。


ガルドは思わず笑った。


昨日、ダンがレオへ言っていた。


『鳥が三回鳴いた。』


あれは嘘だった。


子どもは大人の嘘を疑わない。


信じるからではない。


信じたいからだ。


そのことを、大人は時々忘れる。


「ガルド。」


低い声がした。


頭目だった。


元は隊長室だった部屋へ呼ばれる。


壁には古い地図が掛かり、窓からは街道が細く見えていた。机には何枚かの紙が広げられている。どこの村が飢えているか。どこの橋が落ちたか。どこで熱病が流行っているか。盗賊の頭目が一番よく読んでいるのは、戦利品の目録ではなく、そんな紙だった。


頭目は五十を越えている。


片足を引きずって歩く。


右目には古い傷が走っている。戦場で生き残った人間の目だった。だが、その目はリルを見る時だけ、ほんの少し柔らかくなる。


すぐに戻る。


「薬草が足りん。」


頭目は紙から目を離さず言う。


「熱が広がってる。」


ガルドは黙って聞いていた。


「昨日、リルも咳をしていた。」


その一言だけで十分だった。


ガルドの視線がわずかに動く。


頭目は見逃さない。


「商隊が来る。」


静かな声だった。


「薬を積んでいる。」


沈黙が落ちる。


部屋の外では、子どもたちの笑い声が聞こえていた。誰かが薪を運び、誰かが洗濯物を干し、誰かが鍋をかき混ぜている。


平和だった。


だからこそ、その命令は重かった。


「奪う。」


頭目はそれだけ言った。


誰も喜ばない。


盗賊だからではない。


生きるためだった。


ガルドは地図を見る。


峠。


谷。


街道。


風向き。


伏兵を置く岩場。


自然と目がそこへ向かう。


傭兵だった頃、何百回も読んだ地図だった。


違うのは。


昔は守るために読んでいた。


今は奪うために読んでいる。


その違いだけが、どうしても胸の奥へ刺さったまま抜けない。


「嫌か。」


頭目が聞く。


ガルドは答えなかった。


嫌ではない。


そんな簡単な話ではなかった。


やらなければ、この砦で暮らす者たちが冬を越えられない。やれば、誰かの日常を壊す。どちらを選んでも、守れないものが残る。


昔、ダンが酒を飲みながら笑っていた。


『守るって仕事はな。結局、何かを諦める仕事なんだ。』


その時は笑って聞いていた。


今なら分かる。


あれは冗談ではなかった。


頭目が一本の指を地図へ置く。


街道が山を回り込む細い場所。


逃げ場の少ない峠。


「ここだ。」


その二文字だけが、静かな部屋へ落ちた。


ガルドはまだ知らない。


そこを通る商隊の荷馬車を引いている男が、昨日、自分へ笑いかけてきたダンであることを。


そして、その荷馬車の後ろを歩く一人の男が、かつて世界を救った勇者であることも。

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