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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『車輪の音』

第十六話 車輪の音


夜明け前の世界は、誰かが一度息を止めているみたいに静かだった。


空はまだ青くない。


黒でもない。


その間の、名前をつけるには少し頼りない色をしていた。


草は夜露を抱き、荷馬車の車輪には昨日の泥が薄くこびりついている。馬は眠っているように見えたが、耳だけは時々動いていた。眠っている者と起きている者の境目は、動物の方が人間より曖昧なのかもしれない。


最初に起きたのはダンだった。


誰かに起こされたわけではない。


日が昇る前に目を覚ますことが、もう身体の形になっているのだろう。人間は長く続けたことを、いつか意思ではなく習性として行うようになる。


ダンは毛布をそっと畳み、眠っているルナの肩へもう一枚薄い布を掛けた。布の端が頬に触れたのか、ルナは少しだけ顔をしかめ、それからまた静かになった。


その仕草に迷いがなかった。


毎朝そうしている手だった。


アルトは少し離れた場所で目を開けていた。


眠っていたのか、眠っていなかったのか、自分でもよく分からない。夜が過ぎ、朝になった。ただそれだけのことだった。身体は横になっていたが、眠りは浅く、意識はずっと暗い水面の近くを漂っていた。


ダンはアルトが起きていることに気付いていたはずだ。


けれど何も言わなかった。


それがありがたかった。


人は時々、声を掛けられないことで救われる。


ダンは荷馬車へ歩いていき、車輪を一つずつ確かめた。指で木の継ぎ目を撫で、軸のゆるみを見て、金具を軽く叩く。


小さな音がした。


こん。


こん。


まだ眠っている朝の中で、その音だけが妙にはっきり聞こえた。


車輪の音。


旅の音。


生活の音。


昨日までアルトは、その音をただ背景として聞いていた。しかし今朝は違った。ダンがひとつひとつ車輪を確かめるたびに、この男が世界を救うためではなく、娘を今日の夕方まで運ぶために生きているのだと分かる気がした。


大きな目的ではない。


けれど、大きな目的よりずっと確かなものだった。


「起きてたのか」


ダンが言った。


振り返らずに。


「ああ」


アルトは答える。


「寝られなかったか」


「少しは」


「それなら十分だ」


ダンはそう言って、車輪の泥を小さな木片で落とした。


「眠れない夜に、眠れなかったことまで責め始めると、朝がひどくなる」


アルトは返事をしなかった。


ダンもそれ以上は言わなかった。


その沈黙が、焚き火の消え残りよりも温かかった。



やがてレオが起きた。


起きた、というより跳ね起きた。


少年の眠りは深い。


そのくせ目覚める時だけは唐突だった。


「何時ですか」


誰にともなく聞く。


「鳥が三回鳴いた」


ダンが答えた。


レオは真顔で空を見る。


「それ、時間ですか」


「昔の傭兵団ではな」


「本当ですか」


「嘘だ」


ダンは笑う。


レオは少しだけむっとした顔をした。


その顔があまりにも年相応だったので、アルトは一瞬、何かが胸の奥で動くのを感じた。


動いた。


しかし、それが何なのかは分からなかった。


レオはすぐにミアを探した。


ミアはまだ眠っていた。


金色の髪が毛布からはみ出している。寝ている間にどれほど動いたのか、髪はひどく絡まっていた。小さな鳥なら本当に巣を作れるかもしれない。


レオはため息をつく。


それから、自分の袋から櫛を取り出した。


古い櫛だった。


木でできている。


柄の部分は磨り減り、先端には小さな欠けがある。けれどレオは、それを雑に扱わなかった。木剣を地面に置くことはあっても、その櫛だけは必ず布に包んでしまっている。


ミアが薄目を開ける。


「まだ」


「何も言ってない」


レオが言う。


「言う顔してる」


「髪」


「まだ」


「起きてからでいい」


「じゃあまだ」


「今起きただろ」


ミアは毛布を頭まで被った。


レオは毛布の端を掴む。


「逃げるな」


「逃げてない」


「隠れてる」


「ちがう。いない」


「いる」


「いない」


「髪だけ出てる」


ミアはしばらく沈黙した。


それから毛布の中から小さな声で言う。


「髪はいる」


レオは負けたように笑った。


アルトはそれを見ていた。


兄妹というものは、不思議だ。


近すぎるから傷つける。


近すぎるから守る。


その両方を、何でもない朝の中で同時にやっている。


アルトにも妹がいた。


いた、という言い方が正しいのかどうか、今でも分からない。死んだわけではない。どこかで生きているはずだ。ただ、もう長い間会っていない。


会わない時間が長くなると、人は相手が生きていることさえ、心の中で少しずつ遠くへ置いてしまう。


思い出す資格が、自分にあるのかどうかも分からなくなる。


レオはミアの毛布を剥がした。


ミアは目を閉じたまま、何か小さく抗議する。


「レオ、朝はやい」


「朝だから起きるんだ」


「夜は寝る」


「そうだな」


「じゃあ朝も寝る」


「それは違う」


「なんで」


「そういうもんだ」


「レオは説明がへた」


「うるさい」


レオはミアの髪へ櫛を入れた。


ゆっくりと。


絡んだ髪を無理に引っ張らないように、根気よくほどいていく。何度もやってきた手つきだった。母親の真似なのか、それとも必要に迫られて覚えたのか、アルトには分からない。


ただ、その手つきには生活があった。


誰かを守ることは、剣を振るうことだけではない。


絡んだ髪をほどくことも、たぶんその一つなのだ。



ノアは一番最後に起きた。


と言っても、起きていなかったわけではないらしい。


彼は毛布の中で目を開けたまま、皆の動きを見ていた。


「起きてたのか」


レオが言う。


「はい」


「なら手伝えよ」


「観察していました」


「朝からかよ」


「朝は人が油断します」


レオは何か言い返そうとしたが、やめた。


ノアが真面目な顔をしている時は、大抵の場合、本当に真面目なのだ。


ノアは小さな革表紙のノートを取り出した。


書くわけではない。


ただ開いて、また閉じた。


アルトはその動作を見ていた。


ノアは時々、何も書かずにノートを開く。書くためではなく、書くべきことがあるかどうかを確かめるために開いているようだった。


「何を書いてるんだ」


アルトが聞いた。


ノアは少し考えた。


「まだ分かりません」


「書いてるのにか」


「書いているうちは分からないこともあります」


アルトは返事に困った。


ノアは続ける。


「後で分かることもあります」


「そういうものか」


「たぶん」


たぶん。


その言い方だけは、年相応だった。



朝食は簡素だった。


乾いたパン。


少しの干し肉。


昨日の残りの豆を煮たもの。


温かい食べ物があるだけで、朝はずいぶん違うものになる。湯気は食べ物から立ち上るだけでなく、人の肩からも力を抜かせる。


ルナはパンを二つに割った。


大きい方を見て、小さい方を見る。


しばらく考えて、大きい方をダンへ差し出した。


「お父さん」


ダンは受け取らない。


「お前が食え」


「大きい」


「だからだ」


「お父さん大きい」


「俺はもう十分大きくなった」


ルナは真剣にダンを見た。


「まだ大きくなるかも」


「ならん」


「ちょっとだけ」


「ならん」


「つまんない」


ミアが横から覗き込む。


「レオは大きくなる?」


「なる」


レオが即答した。


「どのくらい?」


「かなり」


「かなりってどれくらい?」


「かなりだ」


「説明へた」


「お前に言われたくない」


ルナが笑った。


ミアも笑った。


レオは少しだけ恥ずかしそうにパンをかじる。


ダンは結局、ルナから大きい方のパンを受け取らず、小さい方を選んだ。


そのかわり、干し肉を一切れルナの器へ入れた。


ルナは気付かないふりをした。


気付いている顔だった。


アルトはそのやり取りを見ていた。


食事というのは、不思議だ。


同じものを食べているはずなのに、誰が誰へ何を渡すかで、まるで別の意味を持つ。パンはただのパンではなくなり、干し肉はただの干し肉ではなくなる。


それは言葉よりも正直な会話だった。


「食わないのか」


ダンが言った。


アルトは手元を見る。


パンが半分残っていた。


「ああ」


「腹に入れとけ」


「減ってない」


「減ってなくても食うんだ」


ダンは豆の鍋をかき混ぜながら言った。


「腹ってのは、減った時だけ世話すりゃいいもんじゃない。減る前に面倒見てやらないと、あとで機嫌を損ねる」


「腹にも機嫌があるのか」


「ある」


ダンは当然のように答える。


「馬にも車輪にも腹にも機嫌はある。商人はそれをなだめながら進む」


ルナが言う。


「お父さん、たまに車輪に話しかける」


「言うな」


「昨日も言ってた」


「言うな」


「がんばれ、あと少しだ、って」


ミアが目を丸くする。


「車輪、返事した?」


ルナは少し考える。


「ぎしって言った」


「言った」


ミアは納得した。


レオは笑った。


ノアは真面目に車輪を見た。


ダンは肩をすくめる。


「笑うな。長く使ってる道具ってのはな、時々人間より信用できる」


「人間よりですか」


ノアが聞く。


「人間は嘘をつく。道具は壊れる時に音を出す」


ノアは少しだけ目を細めた。


その言葉を覚えておく顔だった。


アルトはダンの手元を見ていた。


豆をよそう手。


ルナの器に肉を足す手。


馬の首を撫でる手。


車輪の泥を落とす手。


その手は、剣を握ってきた手だった。


それなのに今は、生活ばかりを支えている。


人は一つの手で、誰かを斬ることも、誰かに食事を渡すこともできる。


そのことが、アルトには少し怖かった。


そして少しだけ、救いのようにも思えた。



食事が終わる頃、空はすっかり明るくなっていた。


鳥が鳴く。


風が草を揺らす。


遠くで水の流れる音がする。


旅は、何か特別な出来事でできているわけではない。荷をまとめ、火を消し、食器を洗い、髪を梳き、馬に水を飲ませ、車輪を確かめる。そういう小さな繰り返しの中に、人は少しずつ遠くへ運ばれていく。


アルトはその繰り返しを見ていた。


自分はかつて、世界を救う旅をしていた。


その旅にも朝はあったはずだ。


食事も、荷造りも、眠れない夜もあったはずだ。


だが思い出せるのは、戦いばかりだった。


魔王城。


剣の重さ。


血の匂い。


歓声。


そしてリシアの横顔。


彼女はいつも朝が早かった。


誰よりも先に起き、何かを書いていた。魔法式か、旅の記録か、ただの手紙か、アルトは聞いたことがない。


聞かなかった。


聞けばよかった。


そう思うことばかりが増えていく。


「行くぞ」


ダンが言った。


荷馬車が動き出す。


車輪が軋む。


ぎし。


ぎし。


その音は昨日と同じはずなのに、今朝は少し違って聞こえた。


ノアが言った。


「右の後輪も少し音が違います」


ダンが笑う。


「お前、商人に向いてるな」


「そうですか」


「人より車輪を見てる」


ノアは少し考えた。


「人も見ています」


ダンは笑った。


「なら、もっと向いてる」


荷馬車はゆっくりと街道を進む。


アルトはその後ろを歩いた。


車輪の音がする。


その音は、世界がまだ続いていることを知らせる小さな合図のようだった。


そして彼は、ほんの少しだけ思った。


続いているのなら。


自分もまだ、その中にいるのかもしれない。


ほんの少しだけ。


本当に、ほんの少しだけ。

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