『残ったもの』
第十五話 残ったもの
峠を越えると、風は少しだけ柔らかくなった。
岩肌を舐めるように吹いていた風は、今は草原を撫でる風へ変わっている。
同じ風なのに、場所が変わるだけで別人みたいだとアルトは思った。
人もそうなのだろうか。
昨日まで勇者だった男は、今日になれば、ただの旅人になる。
風よりも人のほうが、よほど曖昧なのかもしれない。
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「ここで昼にしよう。」
ダンが馬を止めた。
街道脇には大きな楡の木が一本立っている。
太い枝は空を覆い、葉の隙間からこぼれる陽射しが、地面へ小さな光をいくつも落としていた。
ルナは待ちきれないように荷台から飛び降りる。
ミアもその後を追う。
二人はすぐに花を見つけ、しゃがみ込んで何か話し始めた。
レオは薪を拾いに行く。
ノアは荷物を下ろすと、馬の足元をじっと見ていた。
「どうした。」
アルトが聞く。
「少し右前脚をかばっています。」
ノアは馬を見たまま答える。
「歩き方が、さっきから少しだけ違う。」
ダンは驚いたように馬の脚へ手を添えた。
「気付かなかった。」
蹄に小さな石が挟まっていた。
取り除くと、馬は気持ち良さそうに鼻を鳴らす。
ダンはその首を撫でながら笑った。
「……あいつなら、俺より先に気付いてた。」
その言葉は風に混じるように零れた。
レオが振り向く。
「あいつって……ガルドさんですか?」
ダンは馬のたてがみを梳きながら、小さく頷いた。
「昔から馬鹿みたいに馬ばかり見てた。」
少し笑う。
「あいつと旅をすると、馬だけは長生きする。」
⸻
火が起きる。
乾いた枝が弾け、小さな火の粉が昼の空へ消えていく。
ダンは炎を見つめたまま、ゆっくり話し始めた。
「雨の日だった。」
その一言で、ダンの目は今ではなく、遠い昔を見始める。
「三日三晩、雨が止まなかった。」
「山道は崩れて、荷馬車も動かない。」
「若い傭兵が崖から落ちた。」
火がぱちりと音を立てる。
「足の骨を折ってな。」
団長は周りを見渡して言った。
『置いていく。』
誰も反対しなかった。
反対できなかった。
一人を助けて十人死ねば、それは正しい判断になる。
戦場とはそういう場所だった。
「あいつだけだった。」
ダンは少し笑う。
「黙って崖を下りていったのは。」
雨に濡れた岩肌は滑る。
一歩踏み外せば、そのまま谷底だった。
それでもガルドは何も言わず、若い傭兵を背負って戻ってきた。
団長が怒鳴る。
『馬へ乗せろ!』
ガルドは首を振った。
『馬も疲れてる。』
『人間と馬、どっちが大事なんだ!』
しばらく黙って。
ガルドは困ったように笑った。
『どっちも置いていけません。』
レオが吹き出す。
「馬鹿ですね。」
「ああ。」
ダンも笑った。
「どうしようもない馬鹿だった。」
笑いながら。
少しだけ目が潤んでいた。
「でも。」
笑顔が静かに消える。
「俺は、あいつが誰かを置いていくところを、一度も見たことがない。」
風が吹く。
木漏れ日が揺れる。
葉擦れの音だけが、しばらく誰の言葉も代わりにしていた。
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ノアは黙ってダンを見ていた。
話ではない。
ダンを見ていた。
「ダンさん。」
「ん?」
「さっきから一度も。」
少し首を傾げる。
「ガルドさんを『盗賊』って呼びませんね。」
ダンは苦く笑った。
「呼べるか。」
その一言は短かった。
だが、その短さの中に何年もの時間が詰まっていた。
「俺には、昔のガルドしか分からん。」
ノアは静かに頷く。
何も書き留めない。
今日は本も開かない。
人は、本よりも複雑だった。
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ルナが走って戻ってきた。
黄色い花を一輪。
大事そうに握っている。
「お父さん。」
差し出す。
ダンは花を受け取ると、ルナの頭へそっと手を置いた。
その手つきは慣れていた。
守ることが、もう身体の癖になっている人の手だった。
アルトはその手を見つめていた。
ダンも。
ガルドも。
同じ戦場を生きた。
同じ雨に濡れ。
同じ死を見て。
同じ平和を迎えた。
それでも。
一人は娘の頭を撫で。
一人は山へ戻っていった。
その違いは、強さではない。
剣でもない。
運命でもない。
何かもっと小さなものが、人の一生を分けてしまう。
勇者だった頃。
救った命の数は、もう思い出せない。
数えることをやめたのは、いつからだっただろう。
けれど、救えなかった人だけは忘れない。
父。
母。
そして、リシア。
父と母は命を救えなかった。
リシアは違う。
あの日、彼女は生きていた。
笑っていた。
だから気付けなかった。
彼女が何を抱え、何を隠し、どれほど一人で立ち続けていたのか。
勇者だった自分は世界ばかり見ていた。
そのせいで、一番近くにいた仲間を見失った。
守れなかったという言葉には、いくつもの形がある。
剣が届かなかった後悔もある。
言葉が届かなかった後悔もある。
そのどちらも、時間は癒してくれない。
むしろ歳月は、それを胸の奥へ静かに沈めるだけだった。
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その頃。
山の奥深く。
切り立った崖へ張り付くように、朽ちかけた砦が建っていた。
見張り台の旗は色を失い、門柱には折れた槍が逆さに突き立てられている。
勝者の城ではない。
行き場を失った者たちが、最後に辿り着く場所だった。
ガルドは門の前で足を止める。
懐へ手を入れ、小さく折られたパンを取り出した。
まだ半分残っている。
しばらく見つめる。
やがて静かに懐へ戻した。
砦の奥から角笛が鳴る。
短く。
鋭く。
呼ばれている。
ガルドは一度だけ空を見上げた。
青空だった。
それでも、その足は砦の中へ向かって歩き出した。




