『峠の風』
第十三話 峠の風
峠へ入ると風の匂いが変わった。
草の匂いが薄くなる。
代わりに岩の匂いがする。
陽に温められた石の匂いだ。
遠くで鳥が鳴いていた。
姿は見えない。
声だけが谷の向こうから流れてくる。
まるで誰かが忘れていった歌みたいだった。
荷馬車の車輪が軋む。
昨日直したばかりの車輪だ。
それでも時々、不満そうな音を立てる。
ダンはその度に振り返った。
馬を見る。
車輪を見る。
荷台を見る。
父親というのは案外忙しい生き物なのかもしれない、とアルトは思った。
⸻
ミアの髪が風に流れていた。
陽の光を受けると金色というより淡い蜂蜜色に見える。
レオはそれを見て眉をひそめた。
案の定、毛先が絡まっている。
「こっち来い」
「やだ」
「髪」
「やだ」
「鳥が巣作れるぞ」
ミアは真剣に考えた。
「一羽ならいい」
「よくない」
結局捕まった。
レオが櫛を入れる。
ミアが文句を言う。
ルナが笑う。
ノアはその様子を見ながら何かを書き留めていた。
何を書いているのか誰も知らない。
本人も説明しない。
⸻
馬が足を止めたのはその直後だった。
ぴたりと。
まるで地面に根が生えたみたいに。
鼻を鳴らす。
耳が動く。
ダンの肩がわずかに固くなる。
ほんの一瞬だった。
しかしアルトは見逃さなかった。
それは商人の肩ではなかった。
娘のために荷を運ぶ父親の肩でもない。
もっと昔のものだ。
戦場に置いてきたはずの肩だった。
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道の先に人がいた。
一人ではない。
五人。
峠の細道を塞ぐように立っている。
武器を持っていた。
剣。
槍。
斧。
どれも古い。
刃は曇り。
革は擦り切れ。
柄には何度も握られた跡が残っていた。
武器というより。
長く使い続けた道具に見えた。
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先頭の男が一歩前へ出る。
右袖が風に揺れていた。
中身が無いからだ。
風だけがそこに住んでいるみたいだった。
男はダンを見る。
ダンも男を見る。
風が吹く。
誰も喋らない。
谷の下から鳥の声だけが聞こえる。
「……ガルド」
ダンが言った。
男は笑った。
笑うと少しだけ昔の顔が見えた。
若い頃は女にもてただろうな、と何故かアルトは思った。
だがその笑顔は長く続かなかった。
疲労というものは人の顔に住み着く。
一度住み着くとなかなか出ていかない。
「久しぶりだな」
ガルドが言う。
その声は敵の声ではなかった。
かといって友人の声でもない。
長い雨の後に残る曇り空みたいな声だった。
⸻
レオは木剣に手を添えた。
しかし抜かなかった。
抜くべきか分からなかったからだ。
盗賊なら抜く。
だが。
本当に盗賊なのだろうか。
目の前の男達は飢えていた。
それは分かる。
頬が痩けている。
服も古い。
だが目だけは違った。
どこか遠い場所を見ている目だった。
⸻
「変わった盗賊ですね」
ノアが言った。
誰も返事をしない。
ノアは続ける。
「荷馬車を見てない」
風が吹く。
ガルド達の視線は確かに荷物へ向いていない。
食料も。
荷台も。
見ていない。
「あなた達が見てるのはダンさんだ」
ノアは淡々と言った。
盗賊達とダンの視線が交錯する
不思議と緊張感は無かった。
⸻
ガルドが苦笑する。
「嫌なガキだな」
「ありがとうございます」
ノアが答える。
褒められたと思ったらしい。
ダンがため息を吐く。
「昔の仲間だからな」
その一言で。
空気が少しだけ動いた。
⸻
「馬も見てる」
ノアがぽつりと言った。
今度は誰に向けた言葉でもなかった。
独り言みたいだった。
ガルドの後ろにいた若い男が顔を上げる。
ガルドも。
「昔からだ」
ダンが言う。
少し笑っていた。
「こいつは騎馬兵だった」
ガルドは舌打ちした。
後ろの男達が笑う。
久しぶりに聞く昔話だったのかもしれない。
「今でも馬が好きなんだな」
ダンが言う。
ガルドは答えない。
ただ馬を見ていた。
馬もガルドを見ていた。
不思議なことに。
動物は人間より昔を覚えている気がする。
⸻
その時。
若い男の腹が鳴った。
谷に響くほど大きな音だった。
男は顔を真っ赤にする。
ガルドが額を押さえる。
後ろの男達が笑う。
笑い声は少しだけ明るかった。
ほんの少しだけ。
昔に戻ったみたいに。
⸻
ミアが歩いていく。
誰も止められない。
止めても行くからだ。
袋からパンを取り出す。
半分に割る。
若い男へ差し出す。
「いる?」
若い男は固まる。
盗賊として扱われることには慣れている。
憐れまれることにも。
だが。
分けてもらうことには慣れていなかった。
「食え」
ガルドが言う。
若い男はパンを受け取る。
小さく頭を下げる。
ミアも頷く。
それで終わりだった。
まるで当たり前のことをしたみたいに。
⸻
アルトはその光景を見ていた。
風が吹く。
ガルドの袖が揺れる。
若い男はパンを食べている。
ダンは黙っている。
レオは何か言いたそうだった。
ノアは観察している。
ミアは犬を撫でている。
そしてアルトは思う。
帰る場所を失った人間は。
どこへ向かうのだろう。
ガルド達のことではない。
たぶん。
自分自身のことだった。
峠の風は冷たかった。
それなのに。
胸の奥だけが少し熱かった。




