第二十九章:象徴
最初は、ただの噂だった。
「姫様が食べたらしい」
それだけの話。
だが今は違う。
「姫と同じもの、くれ」
屋台で、そう言う客が増えた。
「はいよ、“姫の皿”だ」
店主が笑いながら出す。
フライドポテトと、トマト煮込み。
特別な料理ではない。
だが――
名前がついた。
「これ食ってれば安心だな」
誰かが言う。
周囲がうなずく。
それは、味の話ではなかった。
広場。
子どもたちが遊んでいる。
「姫ごっこしようぜ!」
「いいよ!」
一人が胸を張る。
「私は毎日食べています!」
別の子が言う。
「毒ではありません!」
笑い声が弾ける。
大人たちは、それを見て苦笑する。
だが止めない。
それが、どういう意味か分かっているからだ。
市場。
「このトマト、どこのだ?」
「共同農場だよ」
「姫様のとこか」
それだけで、納得する。
品質の保証ではない。
だが――
それ以上の何か。
信頼。
城。
側近が報告する。
「呼称が定着しつつあります」
「呼称?」
姫が問い返す。
「はい」
一拍。
「“食をもたらした方”と」
姫は、少しだけ目を伏せる。
「……大げさですね」
「事実です」
側近は淡々と答える。
「飢えを終わらせ」
「混乱を収め」
「選ばせた」
一つ一つが、重い。
「民衆は、理由を求めます」
姫は黙る。
「そして今、その理由が――」
言葉が続く。
「あなたになっています」
沈黙。
姫は窓の外を見る。
人がいる。
食べている。
笑っている。
それは、自分が作ったものではない。
芋があり。
トマトがあり。
仕組みがあり。
人が動いた。
だが。
「……象徴、ですか」
小さくつぶやく。
側近は答えない。
必要がない。
外では、屋台に列ができている。
「“姫の皿”二つ!」
「こっちもだ!」
名前が、広がる。
人から人へ。
意味が、付与される。
やがて。
それは、人物を離れる。
思想になる。
「食べれば、生きられる」
「奪わなくていい」
「選べばいい」
それらすべてが――
一つの像に収束する。
姫は静かに言う。
「……危険ですね」
側近が目を向ける。
「何がですか」
姫は答える。
「象徴は、壊されるものです」
一拍。
「作られすぎれば、利用される」
静かな現実。
側近は、わずかに息を吐く。
「ですが」
言う。
「それでも、人は必要とします」
姫は否定しない。
分かっている。
飢えの時代が終わり。
次に来るのは――
“何を信じるか”の時代。
そして今。
人々は、選んだ。
この食を。
この仕組みを。
そして――
この姫を。
遠くで、また笑い声が上がる。
それはもう、止まらない。




