第十六話:視察
翌日。
移動の準備は驚くほど早かった。
姫はすでに地図と帳簿を一つにまとめ、移動中でも作業できるように整理している。
「馬車は三台で足ります」
「補給は現地で再配分」
「護衛は最低限でいいです」
執事が眉をひそめる。
「最低限、ですか?」
「過剰戦力は警戒を招きます」
姫は即答する。
その横で、俺は軽く荷物を確認していた。
「お前、現場行くの慣れてきたな」
「……そう見えますか」
姫は少しだけ視線を逸らす。
「前より判断が速い」
「それは」
少し間。
「あなたの影響です」
さらっと言う。
だが、その一言だけ妙に残る。
執事がまた咳払いをする。
「では出発は――」
「今でいい」
俺が言うと、姫も頷く。
「異論ありません」
決定が早すぎる。
なのに誰も止めない。
それが今のこの領の“普通”だった。
馬車の中。
揺れは静かだ。
姫は向かいに座り、地図を広げている。
距離は近い。
近いのに、仕事の距離でもある。
「ここから先は、隣国の直轄農地です」
「管理者は三名に分散」
「現場の指示系統が弱いですね」
姫はさらさらと書き込んでいく。
俺は窓の外を見る。
「お前、こういうの好きだろ」
「好き……?」
姫は一瞬だけ手を止める。
「合理的な再構築は、嫌いではありません」
「それは好きって言うんだよ」
俺が言うと、姫は少し黙る。
そして小さく言う。
「……そうかもしれません」
その言い方が、少しだけ柔らかい。
馬車が揺れる。
その拍子に、姫のペンが少しずれる。
「あ」
ほとんど反射的に、俺は手を伸ばしてそれを押さえる。
指先が一瞬触れる。
姫はすぐに手を引く。
だが、ほんの一瞬遅い。
「すみません」
「別にいい」
短いやり取り。
なのに、姫は少しだけペン先を見つめたまま動かない。
「……こういうの、まだ慣れません」
「どれ」
「距離です」
さらっと言う。
さらっと言いすぎて逆に重い。
俺は少し笑う。
「距離って、仕事にあるか?」
姫は少しだけ考えてから答える。
「あります」
「でも最近、それが曖昧です」
窓の外に視線を向けたまま。
その声は、いつもの分析じゃない。
少しだけ、迷いが混じっている。
昼前。
隣国との境界線が見え始める。
景色が変わる。
整っていた畑が、少しずつ荒れ始める。
姫が窓の外を見る。
「……ここからですね」
声が少しだけ低い。
「現実が違う場所」
「そんな大げさなもんか」
俺が言うと、姫は首を横に振る。
「違います」
「ここは、まだ“助けられていない側”です」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちる。
馬車が止まる。
境界の先に、農民たちが見える。
遠く、こちらを警戒している視線。
姫が小さく息を吐く。
そして、ほんの少しだけ俺の方を見る。
「行きますか」
「もう来てるだろ」
「はい」
間。
姫は、いつもよりほんの少しだけ近い位置で言う。
「では、“共同経営”の続きを始めましょう」
その言葉は、会議ではなく宣言だった。
そして馬車の扉が開く。




